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クラコフ滞在3日目。<br />これまでずっと訪れたかった地、<br />アウシュヴィッツ(ポーランド語でオシフェンチム)へ。<br /><br />「働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)」の門をくぐる。<br />どれだけ多くの人々が、この皮肉を門の内側から恨み、<br />そして亡くなっていったのか…<br /><br />中谷さん(アウシュヴィッツ博物館唯一の日本人ガイドである)からの<br />「人間がどうしてこのような行動を起こしてしまったのか?」<br />という問いかけからガイドは始まった。<br /><br />多くの収容者たちの遺品の山、<br />収容者を利用して行った生体実験や当時の衛生状態を知る資料、<br />銃殺の壁、毒ガスの缶の山、ガス室、絞首刑台、立ち牢など…<br /><br />すべてにかつて人々の営みや思い出、<br />無慈悲と残忍な殺人への苦しみや恨みが詰まっているのだ。<br />無言の訴えが襲ってくるようで<br />のどが詰まり、言葉が出なくなる。<br /><br />そして強制収容所(特にガス室と焼却炉の)のすぐ脇にあった<br />収容所所長ルドルフ・ヘスの家。<br />妻と子供3人の家族と共に良き父親としてそこに住んでいた。<br />庭作りが好きで収容所の目の前まで美しい庭が広がっていたという…<br /><br />ヘスの回顧録によれば、<br />収容所で行う非人道的行為についての熟考は避けられ、<br />国家の命令による正しい行為という意識のもと(洗脳というべきか)<br />いかに効率よく収容者を処理していくか(与えられた仕事を全うするか)と日々頭を悩ませていたという。<br /><br /><br />収容所の中で行われていた地獄絵と、<br />その管理者の見ていた戦時中という日常との落差。<br /><br /><br />その後移動してのビルケナウ(ポーランド語ではブジェジンカ)。<br />アウシュヴィッツという名前の方が遥かに有名だが<br />実際はアウシュヴィッツよりも圧倒的に多数の収容者たちが殺された収容所。<br /><br />外国人のツアー団体とともに、ユダヤ人学生たちの団体に多く出会った。<br />ダビデの星を背負ったTシャツを着たり、<br />横断幕を張りながら地を踏みしめ歩いたりしていた。<br />学校の授業の一環なのだろうか。<br />彼らの中にわたしと目が合った学生がいたが、<br />この地で思いを果たせず亡くなった犠牲者への痛みと共に<br />ユダヤ人の誇りと信念を見た気がした。<br />あた、炎天下にも関わらず、あちこちで彼らの団体がじっと座りこんで<br />ガイド(または学校の先生かもしれない)の話に耳を傾けているのを見た。<br />自らは自身の心の内とも会話をしているようだった。<br /><br />「ユダヤの人々にとってこの地はお墓であり、弔いの場所」<br />と中谷さんはおっしゃっていた。<br />あの惨劇を遠く離れた土地で知った日本人と、<br />同じ民族が受け同じ痛みとして感じているユダヤ人。<br />平和へのお思いは同じでも、<br />この事実を捉える重さと悲痛な思いは<br />明らかに違うであろうことを感じた。<br /><br />亡くなっていった収容所の人々の歴史の上に成り立っている今の世界。<br />彼らへの敬意共に、心からの弔意を改めて捧げたい。<br /><br /><br />「ドイツ人だったから、ヒトラーだったから、ヘスだったから、<br />という理由では説明することはできない、<br />人間の恐ろしい本能や歴史の流れによって生まれた社会状況」<br /><br />「第一次大戦後貧しかったドイツ国内の状況と反対に<br />豊かに映ったユダヤ人へ起こっていった嫉妬と憎悪の感情」<br /><br />「いじめの構図とよく似た心理構造」<br /><br />「信じられないけれど、民主主義から生まれた社会的差別構造だった」<br /><br />「収容者間にも差別が生まれ、<br />それが新たな収容所の差別構造と統制システムを作り出していたこと」<br /><br />「毒殺された収容者や殺された収容者の片づけは収容者が行い、<br />ドイツ兵士SSは悍ましい仕事に直接手を下さなくても良いシステムを<br />作り出していた」<br /><br />「戦後の、戦犯としてのドイツの国としての姿勢と<br />日本のそれには大きな違いがあること」<br /><br />「歴史を知ることは未来を考えること<br />(ここで起こったことを知り、これからどうあるべきかを考えること)」<br /><br />こうしたことを中谷さんは静かに語ってくださった。<br /><br />中谷さんとの出会いは、今回の旅行で最も貴重な宝物になったと思う。<br /><br /><br />「これからの世代に今回の経験をどのように伝えていくのか」<br /><br />「日本人全体としてきちんと太平洋戦争と向き合っているのか」<br /><br />「人間て何なのだろうという普遍的な疑問」<br /><br />たくさんの宿題とともに帰ってきた。

2012年 アウシュヴィッツ(オシフィエンチム)へ ー クラクフ3日目

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2012/08/05 - 2012/08/05

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梅干し純

梅干し純さん

クラコフ滞在3日目。
これまでずっと訪れたかった地、
アウシュヴィッツ(ポーランド語でオシフェンチム)へ。

「働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)」の門をくぐる。
どれだけ多くの人々が、この皮肉を門の内側から恨み、
そして亡くなっていったのか…

中谷さん(アウシュヴィッツ博物館唯一の日本人ガイドである)からの
「人間がどうしてこのような行動を起こしてしまったのか?」
という問いかけからガイドは始まった。

多くの収容者たちの遺品の山、
収容者を利用して行った生体実験や当時の衛生状態を知る資料、
銃殺の壁、毒ガスの缶の山、ガス室、絞首刑台、立ち牢など…

すべてにかつて人々の営みや思い出、
無慈悲と残忍な殺人への苦しみや恨みが詰まっているのだ。
無言の訴えが襲ってくるようで
のどが詰まり、言葉が出なくなる。

そして強制収容所(特にガス室と焼却炉の)のすぐ脇にあった
収容所所長ルドルフ・ヘスの家。
妻と子供3人の家族と共に良き父親としてそこに住んでいた。
庭作りが好きで収容所の目の前まで美しい庭が広がっていたという…

ヘスの回顧録によれば、
収容所で行う非人道的行為についての熟考は避けられ、
国家の命令による正しい行為という意識のもと(洗脳というべきか)
いかに効率よく収容者を処理していくか(与えられた仕事を全うするか)と日々頭を悩ませていたという。


収容所の中で行われていた地獄絵と、
その管理者の見ていた戦時中という日常との落差。


その後移動してのビルケナウ(ポーランド語ではブジェジンカ)。
アウシュヴィッツという名前の方が遥かに有名だが
実際はアウシュヴィッツよりも圧倒的に多数の収容者たちが殺された収容所。

外国人のツアー団体とともに、ユダヤ人学生たちの団体に多く出会った。
ダビデの星を背負ったTシャツを着たり、
横断幕を張りながら地を踏みしめ歩いたりしていた。
学校の授業の一環なのだろうか。
彼らの中にわたしと目が合った学生がいたが、
この地で思いを果たせず亡くなった犠牲者への痛みと共に
ユダヤ人の誇りと信念を見た気がした。
あた、炎天下にも関わらず、あちこちで彼らの団体がじっと座りこんで
ガイド(または学校の先生かもしれない)の話に耳を傾けているのを見た。
自らは自身の心の内とも会話をしているようだった。

「ユダヤの人々にとってこの地はお墓であり、弔いの場所」
と中谷さんはおっしゃっていた。
あの惨劇を遠く離れた土地で知った日本人と、
同じ民族が受け同じ痛みとして感じているユダヤ人。
平和へのお思いは同じでも、
この事実を捉える重さと悲痛な思いは
明らかに違うであろうことを感じた。

亡くなっていった収容所の人々の歴史の上に成り立っている今の世界。
彼らへの敬意共に、心からの弔意を改めて捧げたい。


「ドイツ人だったから、ヒトラーだったから、ヘスだったから、
という理由では説明することはできない、
人間の恐ろしい本能や歴史の流れによって生まれた社会状況」

「第一次大戦後貧しかったドイツ国内の状況と反対に
豊かに映ったユダヤ人へ起こっていった嫉妬と憎悪の感情」

「いじめの構図とよく似た心理構造」

「信じられないけれど、民主主義から生まれた社会的差別構造だった」

「収容者間にも差別が生まれ、
それが新たな収容所の差別構造と統制システムを作り出していたこと」

「毒殺された収容者や殺された収容者の片づけは収容者が行い、
ドイツ兵士SSは悍ましい仕事に直接手を下さなくても良いシステムを
作り出していた」

「戦後の、戦犯としてのドイツの国としての姿勢と
日本のそれには大きな違いがあること」

「歴史を知ることは未来を考えること
(ここで起こったことを知り、これからどうあるべきかを考えること)」

こうしたことを中谷さんは静かに語ってくださった。

中谷さんとの出会いは、今回の旅行で最も貴重な宝物になったと思う。


「これからの世代に今回の経験をどのように伝えていくのか」

「日本人全体としてきちんと太平洋戦争と向き合っているのか」

「人間て何なのだろうという普遍的な疑問」

たくさんの宿題とともに帰ってきた。

旅行の満足度
4.5
交通
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
鉄道 高速・路線バス 徒歩 飛行機
航空会社
ルフトハンザドイツ航空
旅行の手配内容
個別手配

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  • 前日にクラコフ駅東にあるバスターミナルの窓口で<br />往復チケットを購入(27ズローチ 約650円)<br /><br />当日発車ターミナル番号を確認し乗り込む。<br />観光バスのような車両だったので席は予約制かと思ったが<br />そうでない人々も乗って、座れない人もいた。<br /><br />クラコフ駅隣にあるバスターミナルで<br />目的地と時間、バスターミナル番号を確認する。<br />私が乗るのは<br />Oswiecim行、8:25発、G1<br /><br />前もって買ったチケットは時間指定だったのでおそらく予約チケット。<br />指定の時間のバスしか乗れないと思う。<br />チケットと言っても、レシートみたいなのだったの若干心配したが<br />バス乗車時運転手に見せてOKだったでホッととした。

    前日にクラコフ駅東にあるバスターミナルの窓口で
    往復チケットを購入(27ズローチ 約650円)

    当日発車ターミナル番号を確認し乗り込む。
    観光バスのような車両だったので席は予約制かと思ったが
    そうでない人々も乗って、座れない人もいた。

    クラコフ駅隣にあるバスターミナルで
    目的地と時間、バスターミナル番号を確認する。
    私が乗るのは
    Oswiecim行、8:25発、G1

    前もって買ったチケットは時間指定だったのでおそらく予約チケット。
    指定の時間のバスしか乗れないと思う。
    チケットと言っても、レシートみたいなのだったの若干心配したが
    バス乗車時運転手に見せてOKだったでホッととした。

  • アウシュヴィッツ(オシフィエンチム)までのバスの車内から見た風景。<br />庭園かと思うほど美しく花が飾られたお墓。<br />どこのお墓もきれいに花が供えられており、<br />お盆明けの日本のお墓を思い出した。<br />後日談だが、ポーランドの人々はお墓を大変大切にするそうだ。<br />花を絶やさず供え、常にお墓を美しく保つことが<br />亡き人々への大切な弔いと考えている。<br /><br />ところで、アウシュヴィッツに向かう車中は、<br />一般の観光地へ向かうバスという趣で<br />皆ワイワイと賑やかにおしゃべりしている。<br />私自身も半分観光気分であったことを反省と共に認めたい。

    アウシュヴィッツ(オシフィエンチム)までのバスの車内から見た風景。
    庭園かと思うほど美しく花が飾られたお墓。
    どこのお墓もきれいに花が供えられており、
    お盆明けの日本のお墓を思い出した。
    後日談だが、ポーランドの人々はお墓を大変大切にするそうだ。
    花を絶やさず供え、常にお墓を美しく保つことが
    亡き人々への大切な弔いと考えている。

    ところで、アウシュヴィッツに向かう車中は、
    一般の観光地へ向かうバスという趣で
    皆ワイワイと賑やかにおしゃべりしている。
    私自身も半分観光気分であったことを反省と共に認めたい。

  • 乗ってきたバスと、博物館の入口を示す看板。<br />帰りのバスも、同じところ(黄色い看板の前)から出る。<br /><br />バス時刻はこの黄色い看板に書いてあるので、<br />バスを降りたときに帰りの時刻も見ておくといいかもしれない。

    乗ってきたバスと、博物館の入口を示す看板。
    帰りのバスも、同じところ(黄色い看板の前)から出る。

    バス時刻はこの黄色い看板に書いてあるので、
    バスを降りたときに帰りの時刻も見ておくといいかもしれない。

  • アウシュヴィッツ博物館の入口。<br />手前にいらっしゃるのが中谷剛さん。(博物館唯一の日本人ガイド)<br />日本人でガイドを依頼した参加者たちが<br />入口で10:30、という約束を手がかりに集まる。<br /><br />中谷さんにはメールでご案内をお願いしていた。<br />予約相談のメールをしたところ、やはり混む時期のようで、<br />当初希望していた日から調整しての参加決定となった。<br />一人で訪れ英語やドイツ語のガイドツアーに参加することもできたが、<br />是非とも日本語での説明を聞きたかったのだ。<br />前もってのメールでは私以外に数人の参加者がいる<br />ということを聞いていたが、<br />当日行ってみると日本人13人のグループになった。<br />(ガイド料は一人約40ズローチ 約960円)

    アウシュヴィッツ博物館の入口。
    手前にいらっしゃるのが中谷剛さん。(博物館唯一の日本人ガイド)
    日本人でガイドを依頼した参加者たちが
    入口で10:30、という約束を手がかりに集まる。

    中谷さんにはメールでご案内をお願いしていた。
    予約相談のメールをしたところ、やはり混む時期のようで、
    当初希望していた日から調整しての参加決定となった。
    一人で訪れ英語やドイツ語のガイドツアーに参加することもできたが、
    是非とも日本語での説明を聞きたかったのだ。
    前もってのメールでは私以外に数人の参加者がいる
    ということを聞いていたが、
    当日行ってみると日本人13人のグループになった。
    (ガイド料は一人約40ズローチ 約960円)

  • &quot;ARBEIT MACHT FREI&quot;<br />「働けば自由になれる」<br />アウシュヴィッツ強制収容所の門。<br />Bの字が上下反対になっているのがわかるだろうか。<br />作成した収容者が抵抗の意思を表したものだという。<br /><br />皮肉にも、実際に自由を手にしてこの門をくぐった人々はほんの僅かだった。<br />この強制収容所から生還した人は10人に1人だったという。<br /><br />もっとも、ここにに入った人でさえ<br />選別されて重労働に耐えうると判定された男性だった。<br />アウシュヴィッツに連行されてきた人々のうち<br />老人や女性、子供は強制収容所に連行されることもなく<br />大方が殺されてしまっていた。<br /><br />ここは博物館の入口からすぐの場所に位置し大変混み合っていた。<br />観光客がゾロゾロとこの門をくぐる様子は、違和感のあるものだった。<br /><br />そのため、当時の様子やここをくぐった収容者たちの気持ちに思いを馳せるには<br />かなりの想像力を必要とした。

    "ARBEIT MACHT FREI"
    「働けば自由になれる」
    アウシュヴィッツ強制収容所の門。
    Bの字が上下反対になっているのがわかるだろうか。
    作成した収容者が抵抗の意思を表したものだという。

    皮肉にも、実際に自由を手にしてこの門をくぐった人々はほんの僅かだった。
    この強制収容所から生還した人は10人に1人だったという。

    もっとも、ここにに入った人でさえ
    選別されて重労働に耐えうると判定された男性だった。
    アウシュヴィッツに連行されてきた人々のうち
    老人や女性、子供は強制収容所に連行されることもなく
    大方が殺されてしまっていた。

    ここは博物館の入口からすぐの場所に位置し大変混み合っていた。
    観光客がゾロゾロとこの門をくぐる様子は、違和感のあるものだった。

    そのため、当時の様子やここをくぐった収容者たちの気持ちに思いを馳せるには
    かなりの想像力を必要とした。

  • ヨーロッパ各地のユダヤ人ゲットー(強制居住地区)から<br />ユダヤ人たちがアウシュヴィッツへ連行された。

    ヨーロッパ各地のユダヤ人ゲットー(強制居住地区)から
    ユダヤ人たちがアウシュヴィッツへ連行された。

  • ここに来るまで<br />アウシュヴィッツに収容されたのはユダヤ人だけだと思い込んでいたが、<br />実際は、<br />圧倒的多数のユダヤ人と共に、<br />ポーランド人の政治犯や思想犯、<br />ロマ(ジプシー)、<br />ソ連の捕虜、<br />スラヴ民族や同性愛者、精神薄弱者など社会的なマイノリティなども<br />収容されたという。

    ここに来るまで
    アウシュヴィッツに収容されたのはユダヤ人だけだと思い込んでいたが、
    実際は、
    圧倒的多数のユダヤ人と共に、
    ポーランド人の政治犯や思想犯、
    ロマ(ジプシー)、
    ソ連の捕虜、
    スラヴ民族や同性愛者、精神薄弱者など社会的なマイノリティなども
    収容されたという。

  • そうした強制的な人種の隔離と差別の目的は<br />すべては優秀なドイツのアーリア人種を守り(自由にする)ためだった。

    そうした強制的な人種の隔離と差別の目的は
    すべては優秀なドイツのアーリア人種を守り(自由にする)ためだった。

  • 収容対象者は貨物列車で連行された。<br />しかし、これを見ると事実上運ばれたという表現が正しいのかもしれない。<br />彼らは座る場所もないほどに詰め込まれ、<br />収容所到着までに窒息したり、脱水症状を起こしたりして<br />亡くなる者もいた。<br /><br />暑い夏の日も、寒い冬の日も、<br />恐ろしいほど過酷な環境下、収容者はこの貨物列車で運ばれたのだろう。

    収容対象者は貨物列車で連行された。
    しかし、これを見ると事実上運ばれたという表現が正しいのかもしれない。
    彼らは座る場所もないほどに詰め込まれ、
    収容所到着までに窒息したり、脱水症状を起こしたりして
    亡くなる者もいた。

    暑い夏の日も、寒い冬の日も、
    恐ろしいほど過酷な環境下、収容者はこの貨物列車で運ばれたのだろう。

  • 左手に見えるのがドイツ軍親衛隊SSに選別される収容者たち。<br />右上側に選別されれば即ガス室送りとなる。<br />右側に行かされれば即死が待っているわけではないが、<br />強制労働が彼らを待っている。<br />強制収容所に送られたとしてもその過酷な処遇のため<br />2〜3年でほとんどが亡くなったという。<br /><br />何も知らず彼らは選別を待っていたのだろうか…<br /><br />収容者が隠し撮りをした写真だと言うことだった。<br />アウシュヴィッツで行われた狂気の事実証拠として<br />このように、稀に収容者によって写真が隠し撮られた。<br />バレれば死は免れなかっただろうと思われる中<br />勇気のある収容者がいたのだ。<br /><br />

    左手に見えるのがドイツ軍親衛隊SSに選別される収容者たち。
    右上側に選別されれば即ガス室送りとなる。
    右側に行かされれば即死が待っているわけではないが、
    強制労働が彼らを待っている。
    強制収容所に送られたとしてもその過酷な処遇のため
    2〜3年でほとんどが亡くなったという。

    何も知らず彼らは選別を待っていたのだろうか…

    収容者が隠し撮りをした写真だと言うことだった。
    アウシュヴィッツで行われた狂気の事実証拠として
    このように、稀に収容者によって写真が隠し撮られた。
    バレれば死は免れなかっただろうと思われる中
    勇気のある収容者がいたのだ。

  • 表紙の写真と見比べて欲しい。<br />表紙の煉瓦造りの建物はビルケナウ収容所の入り口であり、<br />手前に見える線路はビルケナウ収容所内まで敷かれ<br />ヨーロッパ各地から連行されてきた収容者を乗せた列車の終点へと続く。<br /><br />そして、この線路の終点を撮ったのがこの一枚である。<br />中央左側に見えるのが収容者たちの家財。ここで没収された。<br />収容者たちは終点奥へと連行される。<br /><br />

    表紙の写真と見比べて欲しい。
    表紙の煉瓦造りの建物はビルケナウ収容所の入り口であり、
    手前に見える線路はビルケナウ収容所内まで敷かれ
    ヨーロッパ各地から連行されてきた収容者を乗せた列車の終点へと続く。

    そして、この線路の終点を撮ったのがこの一枚である。
    中央左側に見えるのが収容者たちの家財。ここで没収された。
    収容者たちは終点奥へと連行される。

  • ユダヤ人の大量殺戮のためにガス室で使用されたチクロンBの缶。<br /><br />当初は戦争利用のための毒ガス開発を目的として<br />生体実験も行われたという。<br /><br />収容者の人数が増えるにつれ、<br />収容者の処分策に窮したドイツ軍は<br />効率化を求めてこれを積極的に用い始める。<br /><br />ガス室では、20分ほどで800〜1000人もの人々が殺されたと言われている。

    ユダヤ人の大量殺戮のためにガス室で使用されたチクロンBの缶。

    当初は戦争利用のための毒ガス開発を目的として
    生体実験も行われたという。

    収容者の人数が増えるにつれ、
    収容者の処分策に窮したドイツ軍は
    効率化を求めてこれを積極的に用い始める。

    ガス室では、20分ほどで800〜1000人もの人々が殺されたと言われている。

  • 収容棟の石階段。<br /><br />ガイドはグループでの移動から、<br />右側、左側どちらかに寄っての上り下りになる。<br />そのため人が歩く位置の石階段表面は削れ、<br />その中のコンクリート素地が見えるほどにすり減っている。<br /><br />世界中から多くの見学者が訪れるためだろうか、<br />人々の関心の高さが伺える。<br />

    収容棟の石階段。

    ガイドはグループでの移動から、
    右側、左側どちらかに寄っての上り下りになる。
    そのため人が歩く位置の石階段表面は削れ、
    その中のコンクリート素地が見えるほどにすり減っている。

    世界中から多くの見学者が訪れるためだろうか、
    人々の関心の高さが伺える。

  • 収容者たちのトランクやバッグの山。<br />収容者はほぼ親族ごと殺されてしまったために<br />すべてが引き取り手がない遺品である。<br /><br />収容者たち(特にユダヤ人)へは<br />移住計画がある、新天地での労働環境確保などといった<br />様々な理由を挙げて移動を促したという。<br />そのため、こうしたトランクに家財一式を詰め<br />アウシュヴィッツまでやって来た。<br /><br />この連行についてユダヤ人たちが疑いを持たないようにするため、<br />(家財の保障を意識させるため)<br />彼らの名前や住所などをトランクに書かせたりと、<br />ドイツ軍は様々な工夫をしたという。<br /><br />しかし実際には、連行後のユダヤ人たちに、<br />家財はおろか物を所有する権利は与えられなかった。

    収容者たちのトランクやバッグの山。
    収容者はほぼ親族ごと殺されてしまったために
    すべてが引き取り手がない遺品である。

    収容者たち(特にユダヤ人)へは
    移住計画がある、新天地での労働環境確保などといった
    様々な理由を挙げて移動を促したという。
    そのため、こうしたトランクに家財一式を詰め
    アウシュヴィッツまでやって来た。

    この連行についてユダヤ人たちが疑いを持たないようにするため、
    (家財の保障を意識させるため)
    彼らの名前や住所などをトランクに書かせたりと、
    ドイツ軍は様々な工夫をしたという。

    しかし実際には、連行後のユダヤ人たちに、
    家財はおろか物を所有する権利は与えられなかった。

  • 収容者たちから没収された靴。<br />左が男性用、右が女性用であったが雪崩れて来そうなほど大量であった。<br /><br />大変おしゃれな女性のヒール靴もたくさんあり、<br />新天地へ自分の大切な物を持って行こうと<br />考えていたのではないかと想像される。<br /><br />収容者の持ち物の中でも金になるものは活用され、また取引されたようだ。<br />それ以外の価値のないものは廃品倉庫に山と積まれた。

    収容者たちから没収された靴。
    左が男性用、右が女性用であったが雪崩れて来そうなほど大量であった。

    大変おしゃれな女性のヒール靴もたくさんあり、
    新天地へ自分の大切な物を持って行こうと
    考えていたのではないかと想像される。

    収容者の持ち物の中でも金になるものは活用され、また取引されたようだ。
    それ以外の価値のないものは廃品倉庫に山と積まれた。

  • ハンドクリーム。<br />新天地での生活に欠かせないと考えて持って来たものであろうか。<br />また、こうした物を使用していたと考えると、<br />当時のユダヤ人の生活がある程度潤っていたと言えるのではないだろうか。<br /><br />こうした遺品の展示の中には、<br />女性の刈り取られた髪の毛のうず高く盛られた山があった。<br />遺族への気持ちを尊重し写真は撮影禁止とのことだった。<br /><br />髪の毛。当時の女性にとって<br />お洒落のための最も身近で大切な存在だったことだろう。<br />収容所に連行された途端に刈り取られ<br />生地や絨毯に加工され海外へも輸出されていたという。<br />なんとおぞましいことだ…<br /><br />残っているものの展示だけでも数トンあるとのこと。<br />この部屋中収容された女性たちの無念の思いが渦巻いているように感じられた。

    ハンドクリーム。
    新天地での生活に欠かせないと考えて持って来たものであろうか。
    また、こうした物を使用していたと考えると、
    当時のユダヤ人の生活がある程度潤っていたと言えるのではないだろうか。

    こうした遺品の展示の中には、
    女性の刈り取られた髪の毛のうず高く盛られた山があった。
    遺族への気持ちを尊重し写真は撮影禁止とのことだった。

    髪の毛。当時の女性にとって
    お洒落のための最も身近で大切な存在だったことだろう。
    収容所に連行された途端に刈り取られ
    生地や絨毯に加工され海外へも輸出されていたという。
    なんとおぞましいことだ…

    残っているものの展示だけでも数トンあるとのこと。
    この部屋中収容された女性たちの無念の思いが渦巻いているように感じられた。

  • 「強制収容所へ連行された囚人(収容者)たちは過労や飢え、サディスティックな懲罰、疲労、長時間い及ぶ点呼、拷問、おぞましい生活環境、生体実験、気まぐれな死刑執行によって死んでいった。そうした、労働できないほど虚弱で病んだ人々は点呼や医務室でSSによって抜き出され、ガス室に送られたり、フェノール注射によって殺害された。」<br /><br />収容者たちは文字通り強制労働を強いられた。<br />ドイツ国内の軍需工場の労働力としてだけでなく、<br />海外から受注を受けての労働もあったという。<br />とはいえ、彼らに賃金は支払われない。<br />海外からの受注生産した品物へも対価は得ていたのだから、<br />食糧と最低限の生活維持費だけを要する<br />安価な労働力として効率抜群の生産性を上げていたと言える。<br /><br />人間ではなく、これでは家畜だ。<br />やり切れない気持ちになり、やり場のない怒りも込み上げてくる。

    「強制収容所へ連行された囚人(収容者)たちは過労や飢え、サディスティックな懲罰、疲労、長時間い及ぶ点呼、拷問、おぞましい生活環境、生体実験、気まぐれな死刑執行によって死んでいった。そうした、労働できないほど虚弱で病んだ人々は点呼や医務室でSSによって抜き出され、ガス室に送られたり、フェノール注射によって殺害された。」

    収容者たちは文字通り強制労働を強いられた。
    ドイツ国内の軍需工場の労働力としてだけでなく、
    海外から受注を受けての労働もあったという。
    とはいえ、彼らに賃金は支払われない。
    海外からの受注生産した品物へも対価は得ていたのだから、
    食糧と最低限の生活維持費だけを要する
    安価な労働力として効率抜群の生産性を上げていたと言える。

    人間ではなく、これでは家畜だ。
    やり切れない気持ちになり、やり場のない怒りも込み上げてくる。

  • 収容者に与えられた食事の再現。<br /><br />「一日当たりの配給される食糧の摂取カロリーは<br />1,500〜1,700カロリーだったという。<br />恒常的な飢えと一日に11時間もの労働により、<br />何かしらのルートで食糧を得ることができなかった者は<br />数か月以内に亡くなっていった」

    収容者に与えられた食事の再現。

    「一日当たりの配給される食糧の摂取カロリーは
    1,500〜1,700カロリーだったという。
    恒常的な飢えと一日に11時間もの労働により、
    何かしらのルートで食糧を得ることができなかった者は
    数か月以内に亡くなっていった」

  • 囚人(収容者)の管理は囚人がしていた。<br />アウシュヴィッツから生きて帰ってきた元収容者が、<br />収容所で行われていた日常を思い出して描いた絵である。<br />思い出したくもないトラウマとも言える過去を<br />敢えて絵によって証言することについて、<br />大変勇気のある人だと中谷さんはおっしゃっていた。<br /><br />絵の背景は…<br />囚人の中から稀に監督役として指名される囚人がいた。<br />彼らはSSの代わりに囚人たちの生活管理をするよう言い渡され、<br />SSの命令通りに動かないと罰されるため<br />囚人への管理をSS以上に厳しく行うようになる。<br />また食事の配分も一任された監督役は次第に太っていったという。<br />太った監督役と仲良くなれば<br />食事の便宜を図ってもらえるのでは、<br />また生きながらえる可能性が高まるのでは、という理由から、<br />囚人たちは監督役に対して従順になり、媚を売り始める。<br />ここに囚人間の上下関係が発生することになる。<br /><br />こうして囚人の中に差別構造ができあがり、<br />自ずと管理システムが構築されていったという。<br /><br />この絵とは離れるが、<br />『夜と霧』の著者であり、<br />他の強制収容所へ収容された経験を持つ<br />ヴィクトール・E・フランクルによれば<br />ドイツ軍によって特権を得たユダヤ人の他の囚人に対する暴挙は<br />ドイツ軍のそれと比較しても酷いものだったと言う。<br /><br />本能がむき出しになった時に人間がとった行動、<br />そして自制を失った中で出来上がる常軌を逸した権力構造。<br /><br />そうした事実が、アウシュヴィッツ強制収容所で起こった悲劇が<br />より一層目を覆うようなものとなったと言えるのではないか。<br />

    囚人(収容者)の管理は囚人がしていた。
    アウシュヴィッツから生きて帰ってきた元収容者が、
    収容所で行われていた日常を思い出して描いた絵である。
    思い出したくもないトラウマとも言える過去を
    敢えて絵によって証言することについて、
    大変勇気のある人だと中谷さんはおっしゃっていた。

    絵の背景は…
    囚人の中から稀に監督役として指名される囚人がいた。
    彼らはSSの代わりに囚人たちの生活管理をするよう言い渡され、
    SSの命令通りに動かないと罰されるため
    囚人への管理をSS以上に厳しく行うようになる。
    また食事の配分も一任された監督役は次第に太っていったという。
    太った監督役と仲良くなれば
    食事の便宜を図ってもらえるのでは、
    また生きながらえる可能性が高まるのでは、という理由から、
    囚人たちは監督役に対して従順になり、媚を売り始める。
    ここに囚人間の上下関係が発生することになる。

    こうして囚人の中に差別構造ができあがり、
    自ずと管理システムが構築されていったという。

    この絵とは離れるが、
    『夜と霧』の著者であり、
    他の強制収容所へ収容された経験を持つ
    ヴィクトール・E・フランクルによれば
    ドイツ軍によって特権を得たユダヤ人の他の囚人に対する暴挙は
    ドイツ軍のそれと比較しても酷いものだったと言う。

    本能がむき出しになった時に人間がとった行動、
    そして自制を失った中で出来上がる常軌を逸した権力構造。

    そうした事実が、アウシュヴィッツ強制収容所で起こった悲劇が
    より一層目を覆うようなものとなったと言えるのではないか。

  • 最も辛い刑と言われる立ち牢や、<br />他の囚人(収容者)の身代わりとなって死刑となった<br />コルベ神父が亡くなった牢などのある棟の内部。<br />コルベ神父は最後まで他の囚人たちを励まし続けたという。<br />彼が最後を迎えた牢には入ることはできなかったが<br />花が手向けられ、ろうそくが灯っていた。<br /><br />また、彼は日本とも所縁のある人物である。<br />フランシスコ会の神父としてキリスト教の布教のため<br />長崎に数年間滞在していたことがあるという。

    最も辛い刑と言われる立ち牢や、
    他の囚人(収容者)の身代わりとなって死刑となった
    コルベ神父が亡くなった牢などのある棟の内部。
    コルベ神父は最後まで他の囚人たちを励まし続けたという。
    彼が最後を迎えた牢には入ることはできなかったが
    花が手向けられ、ろうそくが灯っていた。

    また、彼は日本とも所縁のある人物である。
    フランシスコ会の神父としてキリスト教の布教のため
    長崎に数年間滞在していたことがあるという。

  • アウシュヴィッツの監視塔とドクロマークの看板。<br /><br />収容棟の周りは高圧電流が流れる有刺鉄線が張り巡らされていた。<br />ドクロマークは有刺鉄線に近づかないように掲げられたものだが、<br />強制収容所での生活に絶望し、<br />自殺を志願して飛び込む者もいたという。

    アウシュヴィッツの監視塔とドクロマークの看板。

    収容棟の周りは高圧電流が流れる有刺鉄線が張り巡らされていた。
    ドクロマークは有刺鉄線に近づかないように掲げられたものだが、
    強制収容所での生活に絶望し、
    自殺を志願して飛び込む者もいたという。

  • 収容所内セクターの間に張られた有刺鉄線。

    収容所内セクターの間に張られた有刺鉄線。

  • 毒ガス室の入口。<br /><br />ここで一度で800〜1000人もの人々が殺された。<br />屋根は低く、毒ガスを発生させるチクロンBを放り込む天井穴が<br />ポッカリと開いている。<br />外と唯一通じる穴からは小さく切り取られた空が見える。<br />チクロンBはもともと固形だが、空気に触れるとすぐに気化する。<br />これを扱うSSも、気化したガスを誤って吸引することがないよう<br />ガスマスクを着用したという。<br /><br />囚人(収容者)はシャワーを浴びると言われて連れてこられ、<br />ここから生きて出ることはなかった。<br /><br />ガス室の内部隣には焼却炉もあり、<br />ガスによって毒殺された人々を滑車で運びそのまま焼いた。<br />滑車には一度に数人をまとめて乗せ、焼却炉に入れたという。<br />これらの遺体を運ぶのも、囚人が行っていたそうだ。<br />この毒ガス室は、<br />SSの精神的負担を極端に減らすと同時に<br />囚人の殺人を効率化するための工場として機能していた。<br /><br />ここまで沢山の写真を撮って来た私が言うことではないが、<br />亡くなった人々の無念を思うと、<br />内部の写真を撮ることはできなかった。

    毒ガス室の入口。

    ここで一度で800〜1000人もの人々が殺された。
    屋根は低く、毒ガスを発生させるチクロンBを放り込む天井穴が
    ポッカリと開いている。
    外と唯一通じる穴からは小さく切り取られた空が見える。
    チクロンBはもともと固形だが、空気に触れるとすぐに気化する。
    これを扱うSSも、気化したガスを誤って吸引することがないよう
    ガスマスクを着用したという。

    囚人(収容者)はシャワーを浴びると言われて連れてこられ、
    ここから生きて出ることはなかった。

    ガス室の内部隣には焼却炉もあり、
    ガスによって毒殺された人々を滑車で運びそのまま焼いた。
    滑車には一度に数人をまとめて乗せ、焼却炉に入れたという。
    これらの遺体を運ぶのも、囚人が行っていたそうだ。
    この毒ガス室は、
    SSの精神的負担を極端に減らすと同時に
    囚人の殺人を効率化するための工場として機能していた。

    ここまで沢山の写真を撮って来た私が言うことではないが、
    亡くなった人々の無念を思うと、
    内部の写真を撮ることはできなかった。

  • ビルケナウ(ポーランド語ではブジジェンカ)へバスで向かう。<br /><br />(15分毎に1本アウシュヴィッツから出ている模様。)<br /><br />広大な敷地が見えてくる。

    ビルケナウ(ポーランド語ではブジジェンカ)へバスで向かう。

    (15分毎に1本アウシュヴィッツから出ている模様。)

    広大な敷地が見えてくる。

  • 表紙にもなっているこの写真。<br />初めて見た人は奥に見える建物と手前に向かっている線路が<br />収容所の中に向かっているものか、外に向かっているものか<br />判断がつかないかもしれない。<br />もちろん、わたしもアウシュヴィッツといえば有名な風景<br />くらいにしか思っていなかった。<br /><br />説明すると、ここはアウシュヴィッツではなく、<br />ビルケナウ第二収容所である。<br />奥に見えるのがビルケナウ収容所の門。<br />線路は収容所の内側に向かって走っている。<br />つまり、これらはビルケナウ収容所跡の中から撮影したものである。<br />この線路は収容所の入口までを終点としたものではなく、<br />ビルケナウ内部まで延びているものなのだ。<br /><br />ヨーロッパ各地から収容者を乗せた貨物列車は<br />ビルケナウ内に入り数百メートルのところで止まった。<br /><br />アウシュヴィッツが最も近い都市であるクラコフは<br />第二次世界大戦でドイツ軍の戦火を免れた。<br />その理由として、<br />ドイツ軍SSの司令部がクラコフにあったことが挙げられるようだが、<br />そもそもドイツ軍がこの地に目を付けた理由が<br />ヨーロッパ中からの鉄道路線が集まる交通の要所だったことだった。<br /><br />アウシュヴィッツでは裁ききれなくなった囚人を収容するために<br />ビルケナウ(ブジェジンカ)村であったところに<br />新たな収容所を突貫工事で作り、線路も延長工事した。<br />そして、もともとあった線路を利用し、<br />次から次へと新たな収容者たちを連行した。<br /><br />それだけではない。<br />ビルケナウにはアウシュヴィッツよりも遥かに大人数を殺戮できる<br />ガス室と焼却設備が造られた。<br /><br />ホロコーストと言えば、世界的にアウシュヴィッツが有名だが、<br />実はここビルケナウでの方が遥かに大規模での大虐殺が行われたのだ。<br />(アウシュヴィッツの数十倍とも言われている。)<br /><br />ビルケナウ内部まで連行されたユダヤ人たち収容者は<br />ビルケナウ村の外の地を踏むこともなく、<br />そのほとんどがガス室送りとなっていった。<br /><br />

    表紙にもなっているこの写真。
    初めて見た人は奥に見える建物と手前に向かっている線路が
    収容所の中に向かっているものか、外に向かっているものか
    判断がつかないかもしれない。
    もちろん、わたしもアウシュヴィッツといえば有名な風景
    くらいにしか思っていなかった。

    説明すると、ここはアウシュヴィッツではなく、
    ビルケナウ第二収容所である。
    奥に見えるのがビルケナウ収容所の門。
    線路は収容所の内側に向かって走っている。
    つまり、これらはビルケナウ収容所跡の中から撮影したものである。
    この線路は収容所の入口までを終点としたものではなく、
    ビルケナウ内部まで延びているものなのだ。

    ヨーロッパ各地から収容者を乗せた貨物列車は
    ビルケナウ内に入り数百メートルのところで止まった。

    アウシュヴィッツが最も近い都市であるクラコフは
    第二次世界大戦でドイツ軍の戦火を免れた。
    その理由として、
    ドイツ軍SSの司令部がクラコフにあったことが挙げられるようだが、
    そもそもドイツ軍がこの地に目を付けた理由が
    ヨーロッパ中からの鉄道路線が集まる交通の要所だったことだった。

    アウシュヴィッツでは裁ききれなくなった囚人を収容するために
    ビルケナウ(ブジェジンカ)村であったところに
    新たな収容所を突貫工事で作り、線路も延長工事した。
    そして、もともとあった線路を利用し、
    次から次へと新たな収容者たちを連行した。

    それだけではない。
    ビルケナウにはアウシュヴィッツよりも遥かに大人数を殺戮できる
    ガス室と焼却設備が造られた。

    ホロコーストと言えば、世界的にアウシュヴィッツが有名だが、
    実はここビルケナウでの方が遥かに大規模での大虐殺が行われたのだ。
    (アウシュヴィッツの数十倍とも言われている。)

    ビルケナウ内部まで連行されたユダヤ人たち収容者は
    ビルケナウ村の外の地を踏むこともなく、
    そのほとんどがガス室送りとなっていった。

  • 収容者はこうした列車に詰め込まれてビルケナウに連れてこられた。<br />鉄で覆われ、窓も、もちろん椅子もない。<br />人々は人権もなく、ただ貨物として運ばれた…。<br /><br />これは当時使われていた本物で、<br />戦後ドイツから持ってこられたものだということ。<br /><br />銃殺の壁の穴にや周囲にたくさん置かれていた小石が<br />列車のあちこちにも置かれている。<br />これは、ユダヤ人が亡き人を弔う時に行う習慣だそう。<br />我々の身代わりとなって死んでいった人々の魂の証として、<br />また、彼らがここにいたという証に、<br />そして彼らの矜持を表すために、<br />石を置くという。<br /><br />砂漠での生活の中で、<br />亡くなった人の魂を石に見立てて土地に置くことで<br />故人が心安らかに眠ることができるよう、祈りを込めたものであると<br />中谷さんが教えてくださった。<br /><br />この列車に乗っている間の収容者たちの不安はいかばかりだったか、<br />そして無事着いたとて列車を降りた瞬間から繰り広げられる光景に<br />地獄以外の何を見ることができたというのか…<br />彼らの想像を絶する苦しみと絶望を思うと<br />胸が苦しくなる。<br /><br /><br /><br />

    収容者はこうした列車に詰め込まれてビルケナウに連れてこられた。
    鉄で覆われ、窓も、もちろん椅子もない。
    人々は人権もなく、ただ貨物として運ばれた…。

    これは当時使われていた本物で、
    戦後ドイツから持ってこられたものだということ。

    銃殺の壁の穴にや周囲にたくさん置かれていた小石が
    列車のあちこちにも置かれている。
    これは、ユダヤ人が亡き人を弔う時に行う習慣だそう。
    我々の身代わりとなって死んでいった人々の魂の証として、
    また、彼らがここにいたという証に、
    そして彼らの矜持を表すために、
    石を置くという。

    砂漠での生活の中で、
    亡くなった人の魂を石に見立てて土地に置くことで
    故人が心安らかに眠ることができるよう、祈りを込めたものであると
    中谷さんが教えてくださった。

    この列車に乗っている間の収容者たちの不安はいかばかりだったか、
    そして無事着いたとて列車を降りた瞬間から繰り広げられる光景に
    地獄以外の何を見ることができたというのか…
    彼らの想像を絶する苦しみと絶望を思うと
    胸が苦しくなる。



  • ここがビルケナウ敷地内線路の終点。<br />線路の終点は命の終わる場所であることを同時に意味していた。<br /><br />ここへ連行された人々のほとんどがガス室へ送られたという。<br /><br />誰が置いて行ったのか、人と人が手を取り合う置物と蝋燭がある。<br /><br />「ユダヤの人々にとって、ここはお墓です」<br />と中谷さんはおっしゃっていた。

    ここがビルケナウ敷地内線路の終点。
    線路の終点は命の終わる場所であることを同時に意味していた。

    ここへ連行された人々のほとんどがガス室へ送られたという。

    誰が置いて行ったのか、人と人が手を取り合う置物と蝋燭がある。

    「ユダヤの人々にとって、ここはお墓です」
    と中谷さんはおっしゃっていた。

  • ビルケナウの一番奥に位置する国際慰霊碑。

    ビルケナウの一番奥に位置する国際慰霊碑。

  • ソ連軍の侵攻前に証拠隠滅のため爆破された<br />大規模なガス室と焼却炉の跡。<br /><br />自らの所業に蓋をする行為。<br />最後まで我が身の可愛さを考えていたドイツ軍、<br />当時慌てふためいた様子が想像される。<br /><br />崩れた煉瓦の周りにはテープが張り巡らされている。<br />崩落が危険なためかと思っていたが、<br />中谷さんによれば、ユダヤ人の心情に配慮してのものだそう。<br /><br />ユダヤ教では、亡くなった人の遺品や場所に手を触れてはいけない<br />という戒律があるそうで、それを慎重しているという。<br />

    ソ連軍の侵攻前に証拠隠滅のため爆破された
    大規模なガス室と焼却炉の跡。

    自らの所業に蓋をする行為。
    最後まで我が身の可愛さを考えていたドイツ軍、
    当時慌てふためいた様子が想像される。

    崩れた煉瓦の周りにはテープが張り巡らされている。
    崩落が危険なためかと思っていたが、
    中谷さんによれば、ユダヤ人の心情に配慮してのものだそう。

    ユダヤ教では、亡くなった人の遺品や場所に手を触れてはいけない
    という戒律があるそうで、それを慎重しているという。

  • ビルケナウの敷地内に広がる収容棟跡。<br /><br />あちこちに煙突のように見えるのは、暖炉の跡だということ。<br />各収容棟に1本ずつしかなかった暖炉。<br />マイナス10〜20度になるというこの土地での冬。<br />想像を絶する寒さの中、収容者たちは僅かな暖を求めて暖炉を囲んだのだろうか。

    ビルケナウの敷地内に広がる収容棟跡。

    あちこちに煙突のように見えるのは、暖炉の跡だということ。
    各収容棟に1本ずつしかなかった暖炉。
    マイナス10〜20度になるというこの土地での冬。
    想像を絶する寒さの中、収容者たちは僅かな暖を求めて暖炉を囲んだのだろうか。

  • 木造の収容棟。<br />保存されていて内部を見ることができる。

    木造の収容棟。
    保存されていて内部を見ることができる。

  • 木造収容棟の内部。<br />写真は暖炉の跡。<br />燃料もほとんど与えられず<br />この暖炉の回りがわずかに温まる程度だったという証言もあるそうだ。

    木造収容棟の内部。
    写真は暖炉の跡。
    燃料もほとんど与えられず
    この暖炉の回りがわずかに温まる程度だったという証言もあるそうだ。

  • ベッドというには粗末過ぎる寝床。<br />1段に4〜5人寝ていたという。<br />一番下の段には藁を敷いていた。<br />衛生状態は極めて悪く、<br />そのため過労や栄養失調以外にチフスなどの伝染病によって亡くなる人も<br />少なくなかったという。<br /><br />わたしはトイレを見ることはできなかったが、<br />排尿排便時間が一日の中で一人何十秒と決められていたとか。<br />人権を全く無視した家畜同然、<br />いや、家畜以下の生活を収容者たちがさせられていたのだと思うと<br />気が狂わんばかりの戦慄が襲う。<br /><br />私はここで時間切れとなってしまった。<br />飛行機の時間が迫っていたため<br />ビルケナウからアウシュヴィッツまで出ているシャトルバスに乗るために<br />走った。<br /><br />

    ベッドというには粗末過ぎる寝床。
    1段に4〜5人寝ていたという。
    一番下の段には藁を敷いていた。
    衛生状態は極めて悪く、
    そのため過労や栄養失調以外にチフスなどの伝染病によって亡くなる人も
    少なくなかったという。

    わたしはトイレを見ることはできなかったが、
    排尿排便時間が一日の中で一人何十秒と決められていたとか。
    人権を全く無視した家畜同然、
    いや、家畜以下の生活を収容者たちがさせられていたのだと思うと
    気が狂わんばかりの戦慄が襲う。

    私はここで時間切れとなってしまった。
    飛行機の時間が迫っていたため
    ビルケナウからアウシュヴィッツまで出ているシャトルバスに乗るために
    走った。

  • ガイド中にも関わらず参加者の皆さんに挨拶して去るという形で<br />ガイドを中断しご迷惑をかけてしまった。<br />中谷さんにも私の個人的な時間を気にかけていただき、恐縮だ。<br />この場を借りてお詫びしたい。<br /><br />中谷さんはちょっとだけ微笑んで<br />「がんばって」と、お別れを言ってくださった。<br />そして、<br />「ここで感じ考えたたことを、これからの世代に何を伝えるか」<br />という大きな宿題をもらった。<br /><br />中谷さんに質問したいことや話したいこともたくさんあったし、<br />参加者の皆さんとも感じたことを話す時間が欲しかったけれど<br />もうタイムリミットだ。<br /><br />ビルケナウを後にする。<br />バスの窓から見えるビルケナウの有刺鉄線。<br />先ほどまでどんよりとして雲がかかっていた空、<br />雨もパラついていたのが嘘のように今はからりと晴れ渡っている。<br /><br />あの場所であんな残虐な事件が起こったのか、<br />青空がなんだか平和過ぎておかしな感じがした。<br /><br />また、ここを訪れたら<br />自分を抑えられないような感情に振り回されてしまうのではないかと<br />事前に恐れる気持ちもあった。<br />確かに怒りや悲しみでいっぱいになり、<br />その場で鳴き崩れてしまいたいような気持ちになった場面もあった。<br />しかし、実に淡々とガイドを受けている自分に気が付いた。<br /><br />これは私が日本人で、<br />遠い国で起こった事件としてこの地のことを思っているからなのか。<br />感情的というよりは、人間の本能と可能性についてじっと考え込んでしまった。<br /><br />そして、旅行中ということもあってか、<br />何だか自分自身が浮ついた心持ちであの地に足を向けてしまったような気がしていた。<br />だから、中谷さんにも図々しく色々と質問し、<br />デリカシーのない見学者だったかもしれない。<br /><br />同時に、今の時代に生きる自分の自由な身分が申し訳ないような、<br />後ろめたい気持ちもあった。<br /><br />この経験には、ゆっくり、じっくりと向き合わないといけない。<br />教科書や本などからだけでは得ることのできない<br />この地を訪れ、見て、聴いて、感じて、考えた経験とだ。<br />一面的ではない人間について考え、<br />歴史の大きな流れの中で学ばなければならない。<br />そう思いながら、アウシュヴィッツ博物館を後にした。<br /><br />後世にどう伝えていくのか、という宿題の答えに<br />これからずっと向き合っていくのが、自分のすべきことだ。<br /><br />これも、中谷さんの静かな語りのおかげであったと思っている。<br />

    ガイド中にも関わらず参加者の皆さんに挨拶して去るという形で
    ガイドを中断しご迷惑をかけてしまった。
    中谷さんにも私の個人的な時間を気にかけていただき、恐縮だ。
    この場を借りてお詫びしたい。

    中谷さんはちょっとだけ微笑んで
    「がんばって」と、お別れを言ってくださった。
    そして、
    「ここで感じ考えたたことを、これからの世代に何を伝えるか」
    という大きな宿題をもらった。

    中谷さんに質問したいことや話したいこともたくさんあったし、
    参加者の皆さんとも感じたことを話す時間が欲しかったけれど
    もうタイムリミットだ。

    ビルケナウを後にする。
    バスの窓から見えるビルケナウの有刺鉄線。
    先ほどまでどんよりとして雲がかかっていた空、
    雨もパラついていたのが嘘のように今はからりと晴れ渡っている。

    あの場所であんな残虐な事件が起こったのか、
    青空がなんだか平和過ぎておかしな感じがした。

    また、ここを訪れたら
    自分を抑えられないような感情に振り回されてしまうのではないかと
    事前に恐れる気持ちもあった。
    確かに怒りや悲しみでいっぱいになり、
    その場で鳴き崩れてしまいたいような気持ちになった場面もあった。
    しかし、実に淡々とガイドを受けている自分に気が付いた。

    これは私が日本人で、
    遠い国で起こった事件としてこの地のことを思っているからなのか。
    感情的というよりは、人間の本能と可能性についてじっと考え込んでしまった。

    そして、旅行中ということもあってか、
    何だか自分自身が浮ついた心持ちであの地に足を向けてしまったような気がしていた。
    だから、中谷さんにも図々しく色々と質問し、
    デリカシーのない見学者だったかもしれない。

    同時に、今の時代に生きる自分の自由な身分が申し訳ないような、
    後ろめたい気持ちもあった。

    この経験には、ゆっくり、じっくりと向き合わないといけない。
    教科書や本などからだけでは得ることのできない
    この地を訪れ、見て、聴いて、感じて、考えた経験とだ。
    一面的ではない人間について考え、
    歴史の大きな流れの中で学ばなければならない。
    そう思いながら、アウシュヴィッツ博物館を後にした。

    後世にどう伝えていくのか、という宿題の答えに
    これからずっと向き合っていくのが、自分のすべきことだ。

    これも、中谷さんの静かな語りのおかげであったと思っている。

  • バスは予定より遅れてクラコフ駅に到着。<br />この時点で飛行機の出発時間までほぼ2時間。無事に間に合うか!?<br /><br />バスの中で隣に座ったポーランド人の女性に列車乗車券の買い方を聞く。<br />また、中谷さんのガイドを同じく受けていた日本人の女性に別れを告げる。<br />コインロッカーの荷物を取り出し、<br />クラコフ本駅、列車のホームのチケット窓口へ。<br />16:12発の列車には間に合いそうもない。<br />16:46発を目指す。<br />クラコフBlice空港行きの乗車券を購入。<br />クラコフにいる間毎日ここを訪れたが、売ってもらえなかった(涙)<br />当日じゃないと購入できないのだろうか…結局わからず終いだった。<br /><br />E Wedelショップを覗く。<br />先日チョコレートを購入した際ちょっと話をしたスタッフの女の子がいた。<br />再会にひとしきり沸いた後、板チョコを買って<br />そそくさとお別れを言う。

    バスは予定より遅れてクラコフ駅に到着。
    この時点で飛行機の出発時間までほぼ2時間。無事に間に合うか!?

    バスの中で隣に座ったポーランド人の女性に列車乗車券の買い方を聞く。
    また、中谷さんのガイドを同じく受けていた日本人の女性に別れを告げる。
    コインロッカーの荷物を取り出し、
    クラコフ本駅、列車のホームのチケット窓口へ。
    16:12発の列車には間に合いそうもない。
    16:46発を目指す。
    クラコフBlice空港行きの乗車券を購入。
    クラコフにいる間毎日ここを訪れたが、売ってもらえなかった(涙)
    当日じゃないと購入できないのだろうか…結局わからず終いだった。

    E Wedelショップを覗く。
    先日チョコレートを購入した際ちょっと話をしたスタッフの女の子がいた。
    再会にひとしきり沸いた後、板チョコを買って
    そそくさとお別れを言う。

  • とても近代的できれいな列車だ。<br />ドアはボタン式の手動。トラムと同じだ。<br /><br />5分ほど遅れて発車。<br />飛行機の出発時間まで1時間半を切っており、少し焦る。<br /><br />そんなこちらの気持ちなど知る由もなく、<br />列車はゆったりと進む。<br />私の地元の水郡線と同じ音がする。<br />おそらく、ディーゼルエンジンの列車だ。<br /><br /><br /><br /><br />

    とても近代的できれいな列車だ。
    ドアはボタン式の手動。トラムと同じだ。

    5分ほど遅れて発車。
    飛行機の出発時間まで1時間半を切っており、少し焦る。

    そんなこちらの気持ちなど知る由もなく、
    列車はゆったりと進む。
    私の地元の水郡線と同じ音がする。
    おそらく、ディーゼルエンジンの列車だ。




  • 列車からの一枚。<br />林や草原、穀倉地帯ののどかな風景が続く。

    列車からの一枚。
    林や草原、穀倉地帯ののどかな風景が続く。

  • 17:10過ぎ、列車は空港最寄駅に到着。(写真)<br />無人駅です。<br />空港と駅を往復するバスに飛び乗る。<br />チケット買ってなかったけど、あれは大丈夫だったのだろうか?<br />謎である。<br /><br /><br />と思っていたら、<br />このバスはすぐそばの国際ターミナルの1へ直行でなく<br />国内ターミナルの2経由だった(汗<br />大失敗だ〜!!と焦る。<br />あるいいたら5分の距離。<br />こんなことなら歩いて向かえばよかった…<br />と後悔してももう遅い。<br />のんびりとバスは国内ターミナルに寄り、<br />誰も降ろさず誰も乗せず国際ターミナルへ…(逆に脱力感)

    17:10過ぎ、列車は空港最寄駅に到着。(写真)
    無人駅です。
    空港と駅を往復するバスに飛び乗る。
    チケット買ってなかったけど、あれは大丈夫だったのだろうか?
    謎である。


    と思っていたら、
    このバスはすぐそばの国際ターミナルの1へ直行でなく
    国内ターミナルの2経由だった(汗
    大失敗だ〜!!と焦る。
    あるいいたら5分の距離。
    こんなことなら歩いて向かえばよかった…
    と後悔してももう遅い。
    のんびりとバスは国内ターミナルに寄り、
    誰も降ろさず誰も乗せず国際ターミナルへ…(逆に脱力感)

  • 空港に着いたのが、17:25。<br />これで手荷物チェックや税関で時間がかかったらアウトだな〜と考えつつ、<br />チェックインも随分待たされる。<br />前に並んでいた同便というドイツ人のお兄さんが<br />飛行機もどうせ遅れてるから大丈夫だよって言うからなんとなく安心する。<br /><br />手荷物チェックは拳銃を持った軍隊(?)のおじさんたちが担当していて<br />ちょっとドキっとする。<br />ブルガリアでの自爆テロの影響か…?<br />税関はすんなり通過。<br /><br />結局ドイツ人のお兄さんご名答。<br />結局搭乗も相当待って、出発時刻に搭乗することに…。<br />その間乗客は立たされてイライラしていたが、スタッフはのんびり。<br />いつもこうなのだろうか…<br /><br />とにかく間に合ってフランクフルト行きの飛行機に乗れてホッと一安心。

    空港に着いたのが、17:25。
    これで手荷物チェックや税関で時間がかかったらアウトだな〜と考えつつ、
    チェックインも随分待たされる。
    前に並んでいた同便というドイツ人のお兄さんが
    飛行機もどうせ遅れてるから大丈夫だよって言うからなんとなく安心する。

    手荷物チェックは拳銃を持った軍隊(?)のおじさんたちが担当していて
    ちょっとドキっとする。
    ブルガリアでの自爆テロの影響か…?
    税関はすんなり通過。

    結局ドイツ人のお兄さんご名答。
    結局搭乗も相当待って、出発時刻に搭乗することに…。
    その間乗客は立たされてイライラしていたが、スタッフはのんびり。
    いつもこうなのだろうか…

    とにかく間に合ってフランクフルト行きの飛行機に乗れてホッと一安心。

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