2016/02/21 - 2016/02/29
22位(同エリア6062件中)
norio2boさん
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現存するブリューゲル父の油彩の作品は40点くらいでしょうか?
ブリューゲルの油彩の作品の収蔵数で一番多いのはウィーン美術史美術館で14枚あります。
今回2016年2月のウィーン旅行ではダスチロルと言う名前の小さなホテルに6泊しました。美術史美術館から歩いて3分の客室数30という小さなホテルでした。
ウィーンにブリューゲルを見に来たのは2009年でした。
これは、「ウィーンのブリューゲル」への再訪記です。
今回は、到着した翌日と最終日の前日の2日美術史美術館のブリューゲルルームに行きました。
表紙の写真はブリューゲルの絵の前で鑑賞する子どもたちです。
2009年末の記録は下記の4Tにアップしています。
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/11085854/
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65歳以上(65+)のシニアチケットは9ユーロでした。
このチケットで新王宮(楽器コレクション、武器甲冑コレクション)に入場出来ます。違う日でも使えます。
美術館観賞は「冬の時期」に決めています。理由は空いていてゆっくり鑑賞出来る、おまけに安いからです。
荷物とコートはロッカーに入れ、手ぶらで鑑賞します。ロッカーは1ユーロか2ユーロを入れて施錠します。鍵は無くさないようコイン財布に入れます。開錠するとコインは返却されます。取るのを忘れないように。美術史美術館 博物館・美術館・ギャラリー
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エレベーターはロッカーの脇にあります。
ここは3層建ての建物です。
美術館や博物館の鑑賞はエレベーターで最上階まで行くことにしてます。下りながら見学することにしています。高齢者が観賞を楽しむ為には肉体的な疲労を抑えることが必要だと思っています。 -
最上階のフロアはコインと紙幣の膨大なコレクションがあります。以前来た時に見学しました。日本の紙幣があった記憶があります。
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美術館のセンター部分にある吹き抜けの写真です(iPhoneによる縦パノラマ撮影です)。
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美術館中心部の吹き抜けを見下ろしています。
下に見えるのがミュージアムカフェのカフェゲルストナーです。
カフェゲルストナー
美術史美術館の2階にある重厚な造りのミュージアムカフェです。
美術館の中心にある円形の吹き上げを囲む形でレイアウトされているので、吹き上げの壁面がカフェの壁面に借景されて落ち着いた美しい空間になっています。
昔は円形部分の赤いクッションとセンター部分のネットが無かったので、この席に座ると1階の入り口から入った美しいロビーが見下ろせました。
自然史博物館側の席はすいています。こちらの席には地元の人が多いので同じものを注文するのは良いアイデアだと思います。 -
ルーブル美術館を始め、昔は宮殿でしたという美術館が多いのですが、ウィーン美術史美術館は美術館として建てられたそうです。
ハプスブルグ家の歴代君主のコレクション(総数2200点)を収蔵する。1872年に着工し1891年に竣工しました。 -
オーディオガイドのカウンターで渡された館内のマップです。彼の説明ではエレベーターで上に行って一筆書きのように壁面をなぞって周回し降りてくるという説明でした。
ブリューゲルの部屋はどこかと聞くとあまり英語は得意では無いようでした。
定型的な説明は各国語で訓練されているが会話は苦手なのかな〜と思いました。 -
2階に降りて来ました。
カフェゲルストナー
この時間はまだ誰もいません。ケーキのショーケースも空です。 -
美術史美術館の重厚な内装です。
壁面の装飾を観察出来るように望遠鏡が設置してあります。 -
館内に置いてある小冊子です。
右が催事スケジュールです。1~2月の講演会やガイドが案内されています。ほぼ毎日何か開催されているようです。
左が子供用です。
最近はどの美術館でもリピーターの確保に知恵を絞っているようです。 -
入り口には写真のような解説看板があります。
写真は読みづらいですが、
ドイツ、フェミッシュ、ネデルランド絵画と表示があります。
作家は3行目にブリューゲルの表示があります。 -
ブリューゲルルームには2つのルーベンスルームを通過して行きます。
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ブリューゲルルームに到着しました。
このソファがありがたいです。
座って鑑賞できるのはありがたいことです。 -
最初にある作品は
「子供の遊び」1560年 オーク材の板に油彩
118x161cm -
この絵には250人以上の子供が描かれています。16世紀は特別に作られた「遊具」がまだ無かった時代なので子供たちは木切れや骨とかワッカとか使い終わった樽など不要になったものを玩具にして遊んでいます。
子供たちと言ってもよく見るとある遊びの部分で描かれたその表情は年齢不詳のようです。
そのような見方から考えるとブリューゲルは「大人たちの生きざま」も「子供の遊び」のようだと言いたかったのかも知れません。
絵を見て何を思うかは個人で違います。ましてや、ブリューゲル父の作品は特に作者が意図を隠して暗示的に描いている箇所があるので多種多様な理解があって良いと思います。
同じ鑑賞者が見ても、その日の気分や体調などで異なった印象がある事は「良い絵」の条件のひとつだと思います。 -
ブリューゲル構図は平面的だと誤解されがちです。
当時の子供の遊びを網羅して、まずはそれぞれの下絵を描いて、次にその遊びたちを画面にプロットしたと思います。この絵や「ネーデルランドの諺」でもこのプロット(配置)にブリューゲル父は苦労したと思います。その結果、画面構成は羅列的に(平面的に)なっています。
そこで、ブリューゲル父はこの絵に引きずり込まれるような流れを工夫しています。左右の道と右斜めの道に構図が設定されています。右斜めの道は遥か遠くまで描かれていて奥には霞んだ尖塔が見えます。画面の左下から右上に向かってメインストリートを置き、画面の真ん中あたりに左右に進む道を持つ街並みを描きそれぞれの場所に「遊び」をプロットしています。
この手法は、「ネーデルランドの諺」と「謝肉祭と四旬節の戦い」にも使われています。 -
この部分では樽で遊んでいます。
樽に跨がって遊ぶ二人の男が描かれています。その下の輪っかを転がしている男の奥にある樽には座り込んだ女の子(大人の女性に見えますが)が樽の穴を手で押さえて叫んでいます。樽の中に共鳴する自分の声を楽しんでいます。
この女の子を大人だとして見るならば、誰も聞いていないのに話し続けているところと言うシニカルな場面に見えるでしょうか。
その右側には太った女の子が風船を膨らましています。ゴム風船などなかった当時は豚の膀胱が玩具になりました。 -
次の作品は
「謝肉祭と四旬節のたたかい」です。
この作品は、1559年制作ですからブリューゲル父が3年間イタリア(レオナルドダヴィンチやラファエロたちが活躍していた当時のヨーロッパ絵画の中心地)へ当時の最新の画法(イタリヤ絵画)を学びに行ってアントワープへ戻ってから5年後の作品です。
オーク材の板に油彩 118x164.5cm
原題は
The Fight between Carnival and Lent.
謝肉祭や四旬節に馴染みのない日本人には分かりにくい作品です。
ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝ルドルフ2世のコレクションでした。1748年に宝物館からウィーンに移されました。 -
謝肉祭(しゃにくさい、カーニバル)とはカトリックなどの文化圏で行われるお祭りのことです。
ご存知の、ヴェネツィアの仮面カーニバルとかリオデジャネイロのカーニバルが知られています。ベルギーのバンシュのカーニバルは世界遺産に登録されています。 -
四旬節(しじゅんせつ、レント)とはカトリック教会のエリアに、復活祭の46日前の水曜日(灰の水曜日)から復活祭の前日(聖土曜日)までの期間のことです。
四旬節の期間では食事の節制と祝宴の自粛を行い償い業が行われます。信徒は祈りと断食と慈善を通じて悔い改めを行います。 -
1551年からローマをメインにブリューゲル父はイタリヤで3年間も絵画の勉強をしています。
この絵もそうですが絵画留学の成果であるイタリヤルネサンスのギリシャローマの均整のとれた優雅な人体表現をブリューゲル父は採用しませんでした。
ネーデルランドの一般の民衆の泥臭さを表現するには自分の手法が良いと考えたのかも知れません。ブリューゲル父程の画力があればイタリヤ風を模する事は容易だったし、当時の主流であるイタリア風を採用した方が売れたと思いますが、彼はそうしませんでした。
イタリヤへの絵画留学の成果が発見できる部分を持った作品もあります。この美術館に収蔵されている、ブリューゲル父の作品たちの中で描かれている風景の切り立った山並みや稜線はアントワープやブリュッセル地域のものではありません。同じく、このブリューゲルルームにある「ゴルゴダへの道行き」の画面右手前の聖母マリアたちの人物の描画手法にイタリヤでの修行の成果が認めることが出来ると思います。
画面に描かれているように、カーニバルはエネルギッシュで猥雑なものです。お祭りを楽しむ民衆の姿は、イタリヤルネサンスの優雅な人物よりもブリューゲルの描法がふさわしいと思います。 -
当時のアントワープは人口10万人でした。ロンドンやパリよりも大きな国際都市でした。アーティストとして身を立てるには最良の場所でした。アートに対する需要が大きい所だったのです。
世界初の為替を行う銀行や、貿易センターが設立されました。金以上の貨幣価値を持つ香辛料はアントワープを窓口となり輸入されました。
人口10万人に対し組合に登録した画家は360人、300以上のアトリエがアントワープの裏町にあったようです。 -
画面左側のカーニバルの行列の所です。
この画風はブリューゲル父(1525~1569)の独特のものです。ブリューゲル父が影響を受けた画家にヒエロニムスボッシュ(1450~1516)がいます。
当時の平均的な画家は聖書や古典の中の物語を主題にしてイタリヤ風の作品(レオナルドダヴィンチ(1452~1519)、ラファエロ(1483~1520)、ボッティチェリ(1445~1510)、ミケランジェロ(1475~1564)たちの巨匠の作品)を制作しています。その中で、ブリューゲル父はイタリヤ風の画風にはなりませんでした。 -
次の作品は
「パウロの改宗」1567年制作 オーク材の板に油彩 95x160.5cm
この作品は1594年に大公エルンストがブリュッセルで取得し皇帝ルドルフ2世のコレクションとなりました。その後、1876年にプラハからウィーンに移されました。 -
パウロの改宗
原題 The Conversion of Saul.
「パウロによる福音書」のパウロです。ユダヤ名ではサウロと呼ばれます。パウロはイエスの信徒を迫害していたが、改宗してキリスト教徒となり、キリスト教の基礎を作りました。
手前に描かれている馬上の黄色い服の男と、同じく馬上の真うしろ姿の黒服の男はスペインの征服者たちです。下からは急傾斜の山道をスペイン兵たちが続々と登ってきています。
征服者たちは馬上からパウロの落馬を見ています。 -
新約聖書使徒行伝第9章の記述です。
「彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。」 -
切り立った山はイタリヤの山のようです。
ブリューゲル父は1525年頃に生まれました。アントワープの聖ルカ組合(画家のギルド)にマスターとして登録の記録が残っています。この年1551年から1554年まで、当時の絵画の中心であったイタリヤに絵画留学しています。
ブリューゲル父はこの3年間でローマの古典や当時の巨匠であるラファエロ(1483~1520)やティツィアーノ(1488~1576)の画風を学んだりしませんでした。ブリューゲル父にとってイタリヤでの画家としての学習というか収穫はブリューゲル父の故郷のアントワープにはない、切り立った山や鋭い形の山並みというイタリヤの自然の風景の素描でした。 -
中央部のパウロが落馬している部分のアップです。青灰色の服の男がパウロでしょうか。
イタリヤ風の切り立った山並みの中で画面は構成されています。
当時の主流派である伝統的キリスト教のカソリックを代表するパウロなのか、改宗(プロテスタントへの)の象徴的人物としてのパウロなのか? 宗教改革つまりカソリックとプロテスタントの激烈な血なまぐさい抗争が展開されていたその当時にパウロが聞いたようにイエスの声を聞けという事のように思われます。 -
次の作品は
「バベルの塔」1563年制作 オーク材の板に油彩 114x155cm
この作品も、皇帝ルドロフ2世のコレクションでした。1659年にはレオポルドウィルヘルム大公(美術史美術館に「レオポルドウィルヘルム大公の画廊」というダフィットテニールスの描いた40枚以上の絵画が並ぶ画廊の絵のレオポルド)のコレクションでした。 -
ブリューゲルはバベルの塔のテーマで少なくとも3枚描いたと言われています。
1枚がこのウィーンの作品でもう1枚はロッテルダムにあり「バベルの塔(小)と呼ばれています。いずれも1563年の制作とされています。ロッテルダムの作品は60x74.5cmと小さいです。 -
ブリュッセルのベルギー王立美術館にヨースドゥモンベル(1564〜1635)という画家が描いた「バベルの塔」がありました。
ブリューゲルが「バベルの塔」を描いた1563年の翌年に生まれた画家です。
画面の右に港があり、手前にはニムロド王が部下を引き連れて建設の進捗を視察している等など、ブリューゲルのウィーンの作品と類似しています。このブリューゲル父の絵にインスパイアされて描いた絵です。 -
バベルの塔の話は旧約聖書の創世記の第11章に記述されています。
「時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、 言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。 さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。 こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。 これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。」 -
建設工事の機械は正確に描かれています。足踏み回転式のリフトで資材は引き上げられています。工事に携わる大工さんの為の住居も作られています。
塔は雲海まで届いて来ました。 -
バベルの塔の建築工事の進展が遅れているので王様がやって来ました。この王様はニムロデ王という大暴君です。ニムロデ王の前で4人が膝まづいています。バベルの塔の工事の現場監督でしょう、ひたすらお許しを乞うています。権力と権力に虐げられる人たちの構図です。
王様の右に付き添っている青い肩掛けをし黒い帽子をかぶった役人は状況を熱心に説明していす。自分に責任は及ばないことを彼は知っているのでしょう。
建築が進むにつれて、塔は左に傾いて来ています。このまま建設を進めれば塔は崩壊するでしょう。責任は誰なんでしょうか? 設計者? 施工者? この責任は誰が取るのでしょうか?この塔の建設を考えた王様でしょうか?
この絵を見ていると色々考えさせられます。聖書の「創世記」の時代も、ブリューゲルのいた時代も、更に現在でも同じことが繰り返されています。同じような「人間の愚かさ」が繰り返されています。ブリューゲル自身が「人間の愚かさ」といった言葉で表現される概念を認識して「この絵」を描いたのかは分かりません。聖書にあるバベルの塔の記述を単純に絵画に再現したのではありません。
当時の芸術の大スポンサーであった神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の趣向に合わせて作風と構図を形成していったのかも知れません。
絵画や音楽とかの芸術が「自己の存在や内面の表現の手段」として考えられるようになったのはつい最近のことです。芸術家にとって最大の注文主は教会と修道院でした宗教改革以降に少しずつ芸術は教会から独立して行きます。 -
その部分をもう少しアップしてみました。
王様の説明している男
工事現場の手前に疲れ果て寝っ転がっている作業者たちが見えます。 -
王様の視察の右にはひたすらお許しを乞うている工事責任者たちがいます。
その左(画面の左端)にはもっともらしく仕事をする人たちがいます。ここで石を加工しても塔の工事現場には遠すぎます。どうやって工事現場まで持って行くのでしょうか。王様の視察の時間ではとにかく何か仕事をしていないと見せしめにどんな罰則になるか分かりません。
目をこらして下さい。王様の団体の奥の塔の工事現場の手前には過酷な作業に疲れ果てた作業者が何人も寝っ転がっています。彼らも王様の一行がそこまで視察にいったら、飛び起きて作業に戻ることでしょう。
ここで気になるのは左はじの赤帽子の男です 。右手を石材の上に載せて、顔は王様がいることを無視したように右を向いています。白いエプロンをしていますから石工だと思われます。彼は、何を考えているのでしょうか? -
赤い帽子の男の部分のアップです。
この「バベルの塔」の全体の画面構成の中で、この赤い帽子の男の動きには違和感があります。王様が視察に来ています近くの男たちは王様の前で両足でひざまずき(ヨーロッパでは片足でひざまずきます)、左側の男たちは作業をしています。1人この赤い帽子の男だけ手持ち無沙汰で王様たちに背を向けています。
この赤い帽子に男は「この建築工事の行く末」を知ってしまっているかのようです。 -
王様の前にひれ伏す人たちの手前の石材にブリューゲルのサインがあります。
iPhoneの解像度ではこのくらいが限度です。
BRUEGEL FE MCCCCCLX?
ブリューゲル制作1563 -
次の作品は
「ゴルゴダの丘への道行き」1564年制作 キャンバスに油彩 124x170cm
主題は死刑の判決を受けたイエスキリストが自ら十字架を背負いゴルゴダの丘(ゴルゴダとは髑髏(しゃれこうべ)の意味です)へ進む様子を描いています。ルーベンスも同じ主題の絵を残しています(ブリュッセルのベルギー王立美術館蔵)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0d/Peter_Paul_Rubens_-_The_Road_to_Calvary_-_WGA20258.jpg/365px-Peter_Paul_Rubens_-_The_Road_to_Calvary_-_WGA20258.jpg
ルーベンスの作品はアフリゲム修道院(ブリュッセルの北西にある)の祭壇画として制作されています。画面中央に十字架の重さに耐えかね倒れたイエスの顔がルーベンス、イエスの血の汗を拭くベロニカの顔が後妻のヘレンヌフールメントで描かれています。 -
画面の中央右寄りに描かれたイエスのこれから始まる磔刑に嘆き悲しむ聖母マリアたちです。この画法はイタリヤでの修行の成果が認められます。
ところで、ブリューゲル父はこの絵のどこにイエスを描いているのでしょうか?画面全体の中心部分に十字架の重さに倒れこんだイエスが小さく描かれています。
この写真では左の白い馬の上の部分の倒れた十字架とイエスが描かれています。 -
エルサレムに残されている実際のゴルゴダの丘への道行きは、Via Dolorosa(悲しみの道)と呼ばれる聖墳墓教会に至る全長1kmの道です。14のステーション(留)からなり、第3ステーションと第6ステーションでイエスは躓いています。ベロニカがイエスの顔をハンカチで拭ったのは第6ステーションで、今はベロニカ教会になっています。
エルサレムのビアドローサはブリューゲルの絵ともルーベンスの絵とも全く違います。
2014年にエルサレムへ行って見ました4Tに旅行記をアップしています。
ご参考まで
http://4travel.jp/travelogue/10870820 -
右方向(道行きの方向)に倒れた十字架を正面から描く構図はヒエロニムスボッシュの作品「十字架を背負うキリスト」(同じくウィーン美術史美術館蔵)の影響が強く認められます。
そのヒエロニムスボッシュの作品はブリューゲル父が生まれる1525年の45年前である1480年に制作されています。 -
1545年にトレント公会議では宗教改革の流れを抑えるため「聖人とその他をハッキリ描き分ける」ことを求めたと言われています。
聖人には黄金のリングをつけるなどが宗教画の伝統です。
このブリューゲルの「ゴルゴダへの道行き」では全員が同じ重さで描かれています。
ほとんどの人たちは、それぞれ勝手な事をしています。これから起きる大事件「キリストの磔刑」について何も知らないか、全く関心がないように見えます。 -
イエスと十字架の部分のアップです。
十字架の下に濃紺の服を着たイエスがいます。
聖書の記述ではシモンが十字架を背負いますが、ブリューゲルは数名の男たちが十字架に手を貸しイエスを応援しているところを描いています。
気になるのは2人、十字架を足で押さえ込んでいる赤いベストの男です。何のつもりなんでしょうか?
もう1人は赤いベストの男の右の茶色い服の中年の男です。懸命の十字架を立て直そうとしている人のポケットに手を伸ばしています。彼のズボンの財布を盗もうと手を伸ばしています。
今も昔も大事な時に、皆んなが真剣な時に「皆んなの気持ちを逆なでする様な事」をする人たちがいます。 -
部分(画面右端)です。
ブリューゲルは自分自身を描きこんでいます。
イエスキリストが十字架に架けられ処刑されると言うのに人々は無関心です。作者はこのような大きな出来事を描く場合、画面の中でも小さく構成しています。聖書の中の物語は例えばルーベンスに見られるように劇的に、荘厳に描くのが大きな流れです。ブリューゲル父がこのように描いたのは彼の人生観からして必然性があったと思います。 -
ミュージアムショップでこの絵を題材にしたMichael Gibsonの「The Mill and the Cross」という本を買いました。
日本では「ブリューゲルの動く絵」というこの「ゴルゴダへの道行き」を再現したポーランドのマイェフスキ監督の映画があります。この映画と対応した本です。この映画は分かりずらいと酷評されている作品です。ブリューゲル父の作品を見て、画面の部分部分を覗き込んいる人にとってはとても良くできた映像です。
YouTubeにいくつもアップされています。
予告編ですがご関心あれば
https://youtu.be/3ZrFtewCKts -
画面の右上に描かれた広場(ゴルゴダ)には円形に人垣が出来ています。
左右に処刑用の十字架が立て終わっています。真ん中の十字架を立てようと作業が進んでいます。本当はゴルゴダは丘ですが、ブリューゲルは広場のように描いています。
3本立っている十字架のうち真ん中がイエスのものでしょう。 -
画面中央部の上、ゴルゴダの左には絞首刑の柵が描かれている。木の車輪にくくりつけ木のポールのてっぺんにさらして鳥に始末をさせる近親者に悲しみを与える残酷な処刑方法も行われました。
この作品は1564年の制作です。当時のカソリックによるプロテスタントへの弾圧は過酷でした。スペインから派遣されたアルバ公爵は血の裁判所で多くの新教徒たちを異端とし、一切許さず死刑判決を連発していました。
ちなみにマルチンルターが宗教改革運動を始めたのが50年ほど前の1517年です。 -
この時の記述がマタイの福音書にあります。27章31~42
「こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した。 彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。 そして、ゴルゴタ、すなわち、されこうべの場、という所にきたとき、 彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった。 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、 そこにすわってイエスの番をしていた。 そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。 同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって 言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。 祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、 「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。」 -
次の作品は「農民の踊り」1568年制作 オーク材の板に油彩 114x164cm
ブリューゲル父は1569年にブリュッセルで死去しています。死去一年前の作品です。
この絵も皇帝ルドルフ2世のコレクションでした。
Wikiからのルドルフ皇帝の文化的貢献についての記述の部分を引用します。
〜政治的には無能だったルドルフ2世であるが、教養に富んでいたことから文化人としては優れていた。ルドルフ2世が芸術や学問を保護した結果、欧州における多数の芸術家が集まり、帝国首都のプラハ(ルドルフ2世が、在位途中でウィーンからプラハに遷都した)は文化的に大いなる繁栄を遂げたのである。プラハは国際マニエリスム様式の重要拠点でもあり、ここを起点にマニエリスム様式は1600年前後のヨーロッパ各国に拡散していったのである。チェコのガラス工芸(ボヘミアングラス)を世界的レベルに発展させたのも、ルドルフ2世である。またルドルフ2世自身は、特に錬金術に大いなる興味を示しており、実際に多くの錬金術師のパトロンとなっていた。また、天文学者のティコ・ブラーエやヨハネス・ケプラー、植物学者のシャルル・ド・レクリューズなどもルドルフ2世のもとに出入りしていた。 -
バグパイプを吹く男の下、画面の左側の手前には農民の女性とその娘さんのような女の子が描かれています。画面全体の構成は右上の教会に向けて遠近法が採用されていてそれに合わせて酒を飲み踊りまわる農民たちが描きこまれています。
「バベルの塔」の画面左下に描きこまれている赤い帽子の男も画面全体の流れからすると違和感がある存在です。この作品「農民の踊り」には左手前に違和感を感じさせる妙に縮小された農民の母と娘さんが描かれています。
ブリューゲル父は違和感のあるものを敢えて画面に描きこむ事によって、ある種の破綻を構成させ鑑賞者に作品の幅と深さを感じさせる演出しているように思えます。 -
この部分に描かれた農民たちは殆ど酒に飲まれてしまっているようです。
ブリューゲル父は1569年に40歳前後でブリュッセルで死んでいます。この作品「農民の踊り」は死ぬ前年のものです。制作年度ではこの年のものが8点現存しています。ブリューゲル父は親方の娘マリアクックと1563年に結婚し、アントワープからブリュッセルへ引っ越ししています。1564年に長男が、1568年に次男が生まれています。まだ40歳前後で公私ともに絶好調だったようです。 -
画面の左上の部分です。
ブリューゲル父は農民の生活の実態を徹底して観察していたようです。死因についての記述がどこにもありません。1567年、1568年と精力的というか油の乗り切った作品が残されています。家庭も順調でした。1569年に40歳を少しこえたところで死んでしまった理由が残されていないのは不思議です。死の前に家族への影響が起こるのを心配して、余りに批判的な作品の処分を指示したと言われています。急死ではないようです。
「ブリューゲル父は股の間から景色を覗いて農村風景のスケッチをとる習慣があり、その姿勢の最中に死んだ」という民間伝承があるようです。
「それこそまさに“逆立ちした世界”を描き、農民との間に生きたブリューゲルにふさわしい最期だ」と指摘する美術評論家もいるようです。 -
画面の右上の部分です。
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この2人の足もとには幾つかの落し物が描かれています。
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踊りに出る男の足元の部分のアップです。
紐のようなもので十字架が描かれています。
男の足がその十字架を踏みつけています。 -
アルファベットのJの文字のようなものが落ちています。
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画面右側にある木の幹には何かが貼られています。
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次の作品は
「農民の結婚式」この作品も1568年制作です。 114x164cm キャンバスに油彩
1594年にエルンスト大公がブリュッセルで取得し、皇帝ルドルフ2世のコレクションとなりました。
オランダの16世紀当時の裕福な農民の結婚式だと言われています。結婚の冠の下に座っているのが花嫁です。バグパイプの演奏が2本あって賑やかな祝宴です。結婚式の夜まで花婿は一緒になってはいけないという慣習なのでこの絵にはいません。 -
今日だけ取り外したドアにご馳走が載せられて運んでいます。金属の蝶番が描かれているので外されたのは窓のドアでしょうか?
2009年にウィーン美術史美術館に来ました。その時にはこの作品が一番時間がかかりました。新郎が居ないのはともかく新婦が無表情なのは何故でしょうか?。楽しい結婚式ではないように見えます。
そんな風に絵を見ているところにツアーの団体がやって来ました。解説の女性が解説を始めました。「料理を運んでいる赤い上着の男の足が3本描かれています、消し忘れたのでしょうか?、ブリューゲルのような作家でもこんな事があるんですね」 と解説していました。よく見ると確かに3本ありますね。 -
結婚式で参列者たちはめいめい勝手な事をしています。それ程お祝いの気持ちはなくてひたすら飲んで食べてまた飲んでいます。画面の右側ではカソリックの修道士が黒い服の(農民ではない服装の)男とひそひそ話しをしています。
中央の壁には黒い布が掛けられ、赤と白の縦縞模様のBridal Crown(花嫁の冠)がぶる下がっています。いつもは納屋ですが今日は結婚式の宴会に使われています。その下に楽しくなさそうな表情で描かれた花嫁がポッンと座っています。
当時のご馳走はパンとオートミールとスープです。 -
画面の左下の部分です。酒を大甕からピッチャーにうつしています。その手前では赤い帽子をかぶった子供が食べ残しの皿を抱えて指で食べています。
バグパイプの楽隊は2人入っていますが一休みしているようです。その奥の画面左上には近所の人たちが押し寄せていて、お祝いの酒と食事をねだっています。 -
食事の場面を描いた作品で実際にモグモグ食べているところを描いたのはブリューゲル父だけかも知れません。
レオナルドダヴィンチをはじめとする多くの画家が描いた「最後の晩餐」でも画家たちはパンとかを描いていますが、口を動かしてはいません。
ブリューゲル父の絵を競って購入した君主、貴族たちにとって、農民たちの普段の生活の実態を描いた作品は惹きつけられるものだったようです。 -
次の作品は
「The Massacre of the Innocents」
「幼児虐殺」1566年制作
オーク材の板に油彩 116x160cm -
ヘロデ王は2歳以下の男の子供たちの殺害を命じました。マタイによる福音書の第2章16~18の記述です。
「さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。 こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。 「叫び泣く大いなる悲しみの声がラマで聞えた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」 -
ヘロデ王は2歳以下の男の子を全員殺すように命じました。この作品は1566年です。ブリューゲル父の息子が生まれたのが1564年です。
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画面の中央部分です。殺された自分の子供を膝の上に置き雪の上に座り込む母親が描かれています。
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画面の手前の部分です。
馬上の赤い制服スペイン兵にひざまづき孫の命を助けてくれるよう頼んでいる男が描かれています。
赤い制服の兵士は近衛兵でしょうか? -
お包みの幼児を槍で突き殺す男たちです。男たちの着ている甲冑はスペイン兵のものです。聖書にあるエルサレムの幼児虐殺の記述に基づいて描かれていますが、舞台はスペインに占領されたネーデルランドで時代はブリューゲル父の生きていた時代です。
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画面の中央の奥にはスペインの甲冑を付け槍を右手に持った連隊が描かれています。その中央に白い髭のアルバ公が描かれています。
スペインのアルバ公は「血の裁判所」を作り多くのプロテスタントを処刑しました。1517年に始まったマルチンルターによる教会の改革運動に対してカソリック側からプロテスタントへの弾圧は過酷なものでした。
プロテスタントの語源は宗教改革を求める抗議書(プロテスタティオ)から来ているそうです。 -
次の作品は
「The Return of the Herd」「牛群の帰り」1565年制作 オーク材の板に油彩 117x159cm
ブリューゲル父は連作の月暦画という四季をテーマにした作品を6枚描いています。ブリューゲル父の工房は小さく弟子も少なかったようです。アントワープの大商人ニコラスヨンゲリンクの注文だったようです。各季節の絵を6枚も1年のうちに描いています。前年には長男が生まれています。 -
ブリューゲル父は6枚を描いています。現存するのは5枚です。全て1565年にブリューゲル父は完成させています。その他にこの年にはベルギー王立美術館にある「鳥罠のある冬景色」やロンドンのコートールド美術館にある「Christ and the woman taken adultery」も描いています。前年には長男も生まれています。絶好調の時期だったと思います。ブリューゲル父の工房は小規模なものでした。ルーベンスのようにサインだけと言う事はなかったようです。
-
この連作の月暦画の5作品は他のブリューゲル父の作品と全く異なった印象があると思います。
アントワープの大富豪だったニコラスヨンゲリンクからの注文で、ヨンゲリンク邸の居間の壁に飾られたと言われます。
その経緯もあると思いますが、この5作品は伸びやかで、堅実で、明るいのです。 -
画面の右上の部分です。
この山の稜線はアントワープやブリュッセル近郊にはありません。ブリューゲル父は1551~1554年に亘ってイタリヤに絵画留学しています。この時に留学先の自然の美しさに惹きつけられたようです。 -
次の作品は「The Gloomy Day」「陰鬱な日」1565作 Oil on oak panel. 118x163cm
連作の月暦画のうち3枚がこのウィーン美術史美術館にあります。 -
画面の右上の部分です。
この絵は1月か2月を描いていると言われています。 -
画面の右下の部分です。
右下では3人の子供たちが遊んでいます。白いズボンの男の子はブリュッセルの名物菓子のワッフルを両手に持って食べています。左の2人は少し食べさせてと言っているように見えます。 -
画面の右上の部分です。
落葉樹の枝や、その奥に広がる寒い冬の空や、奥に広がる水平線までの描写は、さすがブリューゲル父だと思わされます。右の農家の2階の白い壁やワッフルを食べている男の子のジャケットの下の部分のオレンジ色が画面を引き締めています。 -
次の作品は
「The Hunters in the Snow」「雪中の狩人」 1565年制作
オーク材の板に油彩 117x162cm
連作の月暦画の1枚です。 -
画面の左下の部分です。
全体的に黒と白の無彩色の階調で画面は構成されています。日差しはありません。影がありません。2匹の狩猟犬の茶色、左上の調理の火のオレンジ、左右の家屋のレンガの茶色が画面を引き締めています。 -
右の下の部分です。
もう日は沈んだのに、アイススケート、そり遊びをたくさんの子どもと大人が楽しんでいるのが描かれています。 -
黒とシルエットで描かれた3人の狩人がいます。今日は余り収穫がなかったようです。
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左側の中央部分では火が焚かれています。
3人が作業をしていて、その右側に子どもが1人その様子を見ています。何の作業でしょうか?
子どもが見ているので調理かと思っています。 -
画面の右上の部分です。
遠景として描かれているそそり立った山はイタリヤ絵画留学の時にスケッチしたイタリヤの山なみが使われているようです。
飛び交う黒い鳥のシルエットも画面に緊張感を出すのに成功しています。
今回のウィーン美術史美術館では収蔵数14枚に対して11枚の作品を楽しむ事が出来ました。 -
ウィーン美術史美術館のルーベンスルームは2部屋あります。ブリューゲルは1部屋です。
ブリューゲルの絵は個人コレクションとして個人の邸宅に飾られました。
ルーベンスには教会や修道院から祭壇画の注文が入っていました。祭壇からキャンバスに張り替えられ額装されたものが美術館に展示されています。 -
小さい作品は個人が持つためのものです。
手前の2枚はルーベンスの後妻の立像と自画像です。 -
「毛皮をまとったエレーヌフールマン」オーク材パネルに油彩 176x83cm
ルーベンス死去の2年前の作品で、通称「小さな毛皮」と呼ばれています。ルーベンスの2度目の妻であるエレーヌフールマンの絵です。ルーベンスは遺言でこの絵をエレーヌに残しました。
アントワープにある大邸宅(今はルーベンスハウスとして一般に公開されている)とともにルーベンスの死後売却されました。 -
ルーベンスは自画像が少ない作家です。上の写真の絵「毛皮をまとったエレーヌフールマン」の絵と同じ時期の作品です。
-
この写真の真ん中にあるのはフェルメールの作品「絵画芸術の寓意」です。勿体無い事に誰もいませんでした。
フェルメールはブリューゲル父の死去から63年後、ルーベンスの死去の8年前に生まれています。現存する作品数はブリューゲル父より少ない36です。
ヨハネスフェルメール(1632~1675)は「オブスクラ」という写真機の原型のような装置で下絵を作成しました。作品の多くが左の窓からの採光で構成されているのはその為です。 -
次からの写真は美術館のレストランの写真です。真ん中のサークルのあるスペースは席がありませんがサイドのテレジア広場側の席はあいています。外からの採光も良いです。
地元の美術愛好家も多いようです。彼らの注文しているメニューを真似すると間違いありません。その料理の写真もアップしました。最後の写真はアルコール入りのウィンナーコーヒーでテレジアの名前が冠でついていました。 -
真ん中のサークルの部屋は満席ですが、サイドのスペースはご覧の通りあいています。
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地元の女性の二人連れのメニューを真似させて貰いました。ウェイターに目立たないように二人連れを指差して微笑みながら「セイム」と言えば通じます。
ソーセージにマスタードとホースラディッシュがついた素朴な一皿です。 -
これも素朴なオーストリア料理です。こま切れの細いスパゲティの入ったスープです。地元の女性が美味しそうに食べていたので真似してみました。
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メニューでコーヒーを見たら
マザーテレジアコーヒーというのがあったので注文しました。アルコール入りです。
冬の寒い時期には、体が芯から温まります。
休憩しながら調べて見ました。
ブリューゲル父は1525生、1569死去
ルドルフ2世はスペインで1552生、1612プラハで死去。
ブリューゲル父が死んだ時にルドルフ2世はまだ17歳。「死の勝利」、「狂女フリート」、「堕天使の墜落」をブリューゲル父が描いた絵1562年にはルドルフ2世は、たったの10歳でした。そう考えるとブリューゲル父の作品で風変わりなものはルドルフ2世の奇妙な風変わりな趣好に合わせたものという理解には無理がある事が分かりました。
また、ブリューゲル父の作品を理解する為の新しいテーマを見つけました。 -
付録1です。
ウィーン美術史美術館のオーディオガイドの言語の切り替えの手順です。
オーディオガイドは4ユーロです。日本語にも対応しています。解説内容は参考になりますが、一つ残念な事は日本語状態では解説作品数が少ない事です。例えばブリューゲル父の有名な作品なのに「農民の結婚式」は日本語がありません。英語はあります。
美術館の説明員に言語の切り替え方法を教えて貰いました。 -
赤いボタンを押すと0が表示されます。
-
9999を打ち込みます。
-
Main
Highlight
が表示されます
音声ガイドでメインかハイライトの紹介をしましょうか?と聞いているのです。 -
どっちか選びます。
-
言語リストが出てきます。
希望の言語を選択します。
日本語の場合Japanischを選択します。
音声ガイドの説明をどの言葉でやるのか設定するわけです。
戻す場合も同じです。 -
付録2です。
ルーベンスの「ゴルゴダへの道行き」です。
ブリュッセルのベルギー王立美術館の収蔵作品です
教会にあった祭壇画ですので大きな作品です。 -
十字架の重みで倒れこんだイエスと、イエスの額の汗を拭くベロニカの部分の拡大部分です。
キリストの顔がルーベンスの自画像から引用されています。
同じく、ベロニカの横顔はルーベンスの後添えのエレーヌフールマンが引用されています。
この作品は注文主であるブリュッセル近郊の修道院に祭壇画として飾られました。敬虔なキリスト教徒たちはルーベンスの顔をしたイエスに祈りを捧げました。
当時、飛ぶ鳥も落とす人気画家のルーベンスです、このようなことを行ってもどこからも指摘されなかったのでしょう。イエスの顔の部分に描かれた「ルーベンスの自画像」は十字架の建てられているゴルゴダの丘に向かうイエスの「人類の罪を背負って磔刑に向かうイエスの苦悩」とは真逆な場所にあるものであると思っています。 -
付録3です。
ウィーン美術史美術館のショップで買いました。
Michael Francis Gibson著
The Mill and the Cross
ブリューゲル父の「ゴルゴダへの道行き」の観察記、解説本です。ポーランドのマイェフスキ監督の映画(邦題「ブリューゲルの動く絵」)と対応しています。
この映画はブリューゲルファンにはよくここまで撮影したと感心し感銘出来る作品です。
YouTubeに「ブリューゲルの動く絵」の予告編がアップされていました。
https://youtu.be/3ZrFtewCKts
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この旅行記へのコメント (6)
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- もっちさん 2017/01/28 20:15:36
- 大変参考になりました。
- 初めまして、旅行記には何度もご来訪いただいておりましたのに、ご挨拶が遅れました。
美術史美術館のブリューゲル作品の丁重な説明ありがとうございます。
私はカラヴッチョとベラスケスのマルゲリータ王女が鑑賞できればいいや〜、とかなり軽いノリで行ったのですが、こんなにもブリューゲルの楽しみ方があったとは驚きです。ちゃんと予習すべきでした。(私はヨーロッパや絵画の歴史に疎いので予習は必須だなと痛感しているこの頃です。。)
美術史美術館は2階のみの鑑賞でしたので、また再訪せねばと思ってます。
またナポリの旅行記でも国立カポディモンテ美術館についても詳細な説明いただきましてとても参考になりました。
- norio2boさん からの返信 2017/01/28 20:29:38
- Re: 大変参考になりました。
- もっち様
コメントありがとうございます。
丁寧な楽しめる旅行記たち拝見しています。
ブリューゲルは残っている作品数が40以内(フェルメールと同じくらいです)
ナポリはブリューゲルがなかったら、行くことのないところでした。ブリューゲルのおかげで素晴らしい観光地を知ることが出来ました。
今年もよろしくお願いいたします!
-
- mistralさん 2016/12/12 09:30:10
- 詳細な解説に!
- norio2boさん
おはようございます。
mistralと申します。
アウシュヴィッツの旅行記への投票、
そしてフォローもしていただきまして
有難うございました。
旅行記のリストからブリューゲルを訪ねる旅、
拝見致しました。
作家毎に「訪ねる旅」をアップされているようで
興味深く拝見しました。
ウィーン美術史美術館、私も大好きな場所です。
ブリューゲルの作品の細部に至るまで解説されていて
現地で見る以上に理解できました。
今後ともよろしくお願いいたします。
mistral
- norio2boさん からの返信 2016/12/31 11:59:09
- Re: 詳細な解説に!
- Mistral さん
コメントありがとうございます。
パソコンではなくiPhoneで4Tをやっているのでコメント頂いているのに気づくのが遅くなりました。
アウシュビッツにはツアーで行きました。2015年3月で寒いポーランドでした。ポーランドの人は優しい人はばっかりでした。あと、スィーツを始め美味しいものが沢山ありました。
旅行記もアップしてます。お時間あったらご覧ください。
新しい年の新しい旅行記を拝見できるのを楽しみにしています。
-
- ばねおさん 2016/12/03 13:20:24
- 面白く勉強になります
- はじめまして
旅行記としてのボリュームの大きさに驚きましたが
内容がとても面白く勉強になります。
現在、フランス旅行中で小さなタブレットしか持参していませんので、帰国しましたらあらためてじっくりと拝読したいと思っています。
ばねお
- norio2boさん からの返信 2016/12/03 17:09:56
- Re: 面白く勉強になります
- メッセージありがとうございます
フランスの天候はどうですか?
日本は急に寒くなりました。
丁寧な旅行記いつも楽しみに拝見しています。
気を引き締めご旅行をして下さい。
無事のご帰国をお祈りします。
新しいアップを心待ちにしています。
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