関ヶ原・垂井の名所・史跡 ランキング
ランキングを条件で絞り込む
- エリア
- カテゴリ
- クチコミあり
- すべて
-
3.46
- アクセス
- 3.34
- 人混みの少なさ
- 4.04
- バリアフリー
- 2.64
- 見ごたえ
- 3.76
現在は田園の広がる中程にある「決戦地」。かつて関ケ原合戦の中でも特に激しく戦いが行われたこの場所には、石碑や、徳川家・石田家の家紋入りの旗が建てられています。また、決戦地北西に位置する小さな山が、西軍の指揮を執った石田三成が陣を布いた笹尾山です。麓には合戦時に敵からの攻撃を防ぐために設置された馬防柵が復元され、山頂には「石田三成陣跡」の石碑が置かれています。他にも「徳川家康最後陣跡」や「丸山烽火場」「開戦地」など見所がいっぱい。点在する古戦場めぐりには レンタサイクルが便利です。「決戦コース」「天下取りコース」など散策モデルコースも多くあります。また、岐阜関ケ原古戦場記念館や関ケ原町歴史民俗学習館、笹尾山交流館や関ケ原駅前観光交流館(いざ。関ケ原)など、関ケ原を五感で楽しめる施設が多くあります。ぜひ「関ケ原の戦い」を体験しに訪れてみてください。日本史上最大級の激戦が繰り広げられた地 ...続きを見る
- アクセス
- JR関ケ原駅から決戦地まで徒歩で約20分
-
3.40
- アクセス
- 3.34
- 人混みの少なさ
- 3.64
- バリアフリー
- 2.80
- 見ごたえ
- 4.12
- 住所
- 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原4008
-
3.37
- アクセス
- 2.98
- 人混みの少なさ
- 3.78
- バリアフリー
- 3.29
- 見ごたえ
- 3.41
関ケ原合戦 最大の激戦地。笹尾山を背に、現在は田園の広がる中程に「決戦地」があります。1600年9月15日午前、関ケ原の戦いは西軍有利の展開で進んでいたといわれています。しかし、小早川秀秋の裏切りによって状況は一変し、一挙に東軍が優勢となり、奮闘むなしく西軍は敗北します。そしてこの決戦地は、東軍諸隊が三成の首級を狙って、最大級の激戦が繰り広げられた場所といわれ、この地で激戦が繰り広げられていたのかと思うと、現在はのどかなこの田園風景も全く見え方が変わってきます。 ...続きを見る
- アクセス
- JR関ケ原駅より徒歩20分
-
3.37
- アクセス
- 3.58
- 人混みの少なさ
- 3.94
- バリアフリー
- 3.40
- 見ごたえ
- 3.67
徳川家康は合戦当日の午前11時頃、戦況が把握できないため、桃配山から笹尾山の「石田三成」の陣の正面であるこの陣地に本陣を移しました。一説には、ここから松尾山の「小早川秀秋」を鉄砲で威嚇したとも言われています(問鉄砲)。関ケ原合戦後には、床几場で首実検が行われました。その後、幕府の命を受けた領主の竹中家により周囲の土塁や中央の土壇が築かれました。土壇中央には「床几場(しょうぎば)徳川家康進旗験馘處」と刻まれた標柱が建っています。「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」 ※意味) 戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦い、国土が穢れている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土を願い求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す。徳川家康「厭離穢土欣求浄土」の考え方 ...続きを見る
- アクセス
- JR関ケ原駅より北に徒歩10分
-
3.34
- アクセス
- 4.19
- 人混みの少なさ
- 3.85
- バリアフリー
- 3.92
- 見ごたえ
- 3.50
- アクセス
- JR関ケ原駅前
- 営業時間
- 9時00分~17時00分
- 休業日
-
・4月~10月まで: 無し
・11月~3月まで: 火曜日(休日の場合は翌日)
もっと見る
-
-
3.34
- アクセス
- 3.67
- 人混みの少なさ
- 4.42
- バリアフリー
- 3.25
- 見ごたえ
- 3.64
- 住所
- 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
-
3.33
- アクセス
- 3.23
- 人混みの少なさ
- 4.05
- バリアフリー
- 3.00
- 見ごたえ
- 3.65
島津義弘、得意の鉄砲で次々と狙撃。神明神社裏側に「島津義弘陣跡」はあり、西軍布陣地のほぼ中央部に位置しています。島津隊はわずか800名程度ともいわれる少数部隊で、鉄砲を巧妙に使って戦い、陣中では壕も掘らず、柵も作らず、鉄砲隊は交互に入れ替わり狙撃し、騎馬隊を打ち落としていたといわれています。その後西軍諸隊が敗走する中、「背を向けては逃げぬ」という名家島津の誇りを感じられる「捨て奸(すてがまり) 」という戦法は現代までも語り継がれています。~人情味溢れる九州の雄~島津家を躍進させた義弘は、人情味溢れる性格だったといわれています。主従分け隔てなく下級の兵士と囲炉裏を囲み、自らの家族だけでなく、家臣に子どもが産まれると、自らの館に招き入れ祝福したといわれています。敵方にも情け深く、朝鮮出兵の際に討ち取った相手を供養したそうです。周囲の反対を押し切り、関ケ原合戦に西軍として参加したのも、三成に対する恩義によるものです。義弘の人情深い性格が、数々の窮地に陥った島津家を救ったに違いありません。 ...続きを見る
- アクセス
-
JR関ケ原駅より北西に徒歩15分
神明神社付近
-
3.33
- アクセス
- 3.19
- 人混みの少なさ
- 3.88
- バリアフリー
- 3.33
- 見ごたえ
- 3.54
戦国の聖地、関ケ原笹尾山で甲冑体験。関ケ原笹尾山交流館(せきがはらささおやまこうりゅうかん)は、関ケ原古戦場でも一番の観光スポットである笹尾山・石田三成陣跡での交流を促進するための拠点施設です。「甲冑体験(有料)」をはじめ、観光パンフレットの配架や観光情報の発信を実施しています。夏の暑い時期にはソフトクリームを販売しており、古戦場巡りの途中の休憩としても、ぜひお立ち寄りください。関ケ原のイベント情報に関してはホームページをご覧ください。 ...続きを見る
- アクセス
-
笹尾山・石田三成陣跡東隣
<車でお越しの場合>名神高速道路関ケ原ICから5分
<電車でお越しの場合>JR東海道本線JR関ケ原駅下車で徒歩20分
-
3.33
- アクセス
- 3.35
- 人混みの少なさ
- 3.70
- バリアフリー
- 3.36
- 見ごたえ
- 3.55
天下分け目の決戦「関ケ原の合戦」 開戦の地。関ケ原合戦当日の朝、霧が薄くなったのをきっかけに松平・井伊隊が、先峰の福島隊の脇を通り抜け、宇喜多隊の前へ進出し発砲。この井伊隊の抜け駆けに怒った福島正則が、宇喜多隊に対して一斉射撃を行い、この開戦地で関ケ原合戦開戦の火ぶたが切られました。「徳川四天王」の一人である井伊直政は、家康の天下獲得戦で多く先鋒を務めており、関ケ原の戦いでも当然先鋒を務める腹づもりでしたが、決定したのは豊臣から寵愛されていた福島正則で、そのことに不満を感じ、福島隊を出し抜いたのです。 ...続きを見る
- アクセス
- R21松尾交差点から北へ車で2分
-
3.33
- アクセス
- 3.29
- 人混みの少なさ
- 3.64
- バリアフリー
- 2.00
- 見ごたえ
- 3.50
- 住所
- 岐阜県関ヶ原町関ヶ原野上1424-1
-
-
3.33
- アクセス
- 3.83
- 人混みの少なさ
- 3.50
- バリアフリー
- 3.33
- 見ごたえ
- 4.00
笹尾山の麓。“三成に過ぎたるもの”と言われた島左近は関ケ原の合戦前日、兵500を率いて挑んだ岐阜県大垣市「杭瀬川の戦い」で勝利し、西軍の士気を高め、当日は笹尾山の麓に布陣します。開戦後、攻め寄る黒田長政や細川忠興ら東軍を幾度も押し返す活躍を見せましたが、長政の家臣、菅六之助の襲撃で負傷し、奮戦の末、討死したとも、戦場を脱したともいわれています。これを機に善戦していた石田隊は徐々に押し込まれていきました。 ...続きを見る
- アクセス
- JR関ケ原駅から北へ徒歩25分
-
3.33
- アクセス
- 3.25
- 人混みの少なさ
- 3.96
- バリアフリー
- 3.07
- 見ごたえ
- 3.25
北天満山から関ケ原の合戦開始の狼煙をあげる。小西行長は約6000名の兵を率いて西軍につき、北国街道と東山道(中山道)の間に位置する北天満山に布陣し、合戦開始とともに烽火をあげて味方に合戦の合図をしました。西軍諸隊が総崩れした後は揖斐川町方面へ敗走しましたが、その後自首し、京都で石田三成らとともに処刑されました。~最後まで、キリシタンであった男~キリスト教信者として知られている小西行長。豊臣秀吉配下の武将で、洗礼名はアウグスティヌスといいました。一度は敗走するも、その後自首し関ケ原領主であった竹中重門の家来により家康のもとへ送られ、三成らと共に斬首されました。その際、浄土門の僧に経文を置かれることを拒否し、代わりにキリストとマリアのイコンを頭上に掲げたそうです。斬首された首は晒されましたが、改葬はキリシタンの手によりカトリック方式でとり行われたとされています。 ...続きを見る
- アクセス
- 国道21号線松尾交差点より北へ車で2分
-
3.32
- アクセス
- 3.68
- 人混みの少なさ
- 4.45
- バリアフリー
- 3.30
- 見ごたえ
- 3.25
- アクセス
- JR関ケ原駅より西に徒歩3分
-
3.32
- アクセス
- 3.07
- 人混みの少なさ
- 4.43
- バリアフリー
- 3.30
- 見ごたえ
- 3.19
軍監として参戦。戦機熟するや島津の陣へ徳川四天王である本多忠勝は、三方ヶ原・長篠の合戦等で数々の功を上げた猛将で勇猛なだけではなく知略も備えた名将でした。さらには、政治家としても力量を発揮し、特に人心掌握に努めて領民の敬愛を集めたといういわれもあります。その忠勝の陣跡は「十九女池」の西側に位置するところあり、関ケ原の合戦では軍監として参戦し、松平・井伊隊が対戦していた島津隊に向かって進撃し共に戦いました。関ケ原合戦後は功績により、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)10万石に転封となりました。?天下人に牙を剥いた男!?本多忠勝は、関ケ原合戦において西軍に与した真田昌幸・信繁(幸村)親子の助命を、昌幸の長男であり、娘婿の真田信之と共に、徳川家康に嘆願しました。徳川家臣は、合戦で、徳川軍が昌幸・信繁に度々煮え湯を飲まされていたこともあり、両名の助命に猛反対しました。忠勝は初め、理詰めで説得をしていましたが、いつまでも首を縦に振らない家康に対し「認められなければ、殿と一戦交える覚悟だ」と啖呵を切り、家康を驚かせました。その結果、昌幸・信繁の助命が決まったそうです。 ...続きを見る
- アクセス
- 関ケ原ICより北に車で5分
-
3.32
- アクセス
- 2.17
- 人混みの少なさ
- 3.50
- バリアフリー
- 1.00
- 見ごたえ
- 4.13
- アクセス
- 平塚為広碑より山中へ徒歩15分、大谷陣跡より徒歩5分
-
宿公式サイトから予約できる岐阜県のホテルスポンサー提供
-
関ヶ原・垂井への旅行情報
-
3.31
- アクセス
- 3.33
- 人混みの少なさ
- 3.83
- バリアフリー
- 3.50
- 見ごたえ
- 3.25
開戦すぐ、宇喜多隊を衝く福島隊。福島正則は秀吉子飼いの大名でありながら 、石田三成と対立して東軍へ加担し、関ケ原合戦の開戦後、宇喜多隊に襲いかかり死闘を繰り広げました。現在、陣跡が残る春日神社境内には、関ケ原合戦屏風にも描かれた樹齢800年の「月見の宮・大杉」が、どっしりとそびえ立っています。また、関ケ原合戦時に福島隊の戦闘隊長は、御嵩町ゆかりの武将である可児才蔵が務めています。【月見の宮・大杉】目通り約5.8m、高さ約25m、樹齢800年余りと推定されており、町の天然記念物に指定されています。 ...続きを見る
- アクセス
-
国道21号線松尾交差点南に徒歩5分
春日神社付近
-
3.31
- アクセス
- 3.50
- 人混みの少なさ
- 4.32
- バリアフリー
- 3.30
- 見ごたえ
- 3.50
壬申の乱の翌年に置かれた関所跡。日本三関の一つで、歌碑・句碑が並んでいる。
- アクセス
- 関ケ原駅/バス/7分/松尾下車/徒歩/5分
- 予算
- 【料金】 無料
もっと見る
-
3.31
- アクセス
- 3.06
- 人混みの少なさ
- 4.00
- バリアフリー
- 2.63
- 見ごたえ
- 3.50
西軍の副総帥。杉の木立がうっそうとした南天満山の麓に天満神社があります。関ケ原合戦時には、この付近に兵約1万7千という西軍の主力部隊を布陣し、副総帥として参戦した宇喜多秀家。開戦の烽火と共に東軍・福島隊に攻め込まれた史実から、この辺りは大変に激しい戦いが繰り広げられた場所だと考えられます。秀家は、敗走し山中をさまよった後、揖斐でかくまわれ、密かに島津氏を頼って薩摩へ下り、死罪は免れましたが八丈島へ流され、余生を遠島で過ごすこととなりました。その後秀家は84歳で亡くなり、このときすでに江戸幕府第4代将軍徳川家綱の治世で、関ヶ原に参戦した大名としては最も長く生きた武将でした。 ...続きを見る
- アクセス
- 国道21号線松尾交差点で北へ車で約2分
-
3.31
- アクセス
- 3.63
- 人混みの少なさ
- 3.75
- バリアフリー
- 4.00
- 見ごたえ
- 3.80
西軍・平塚為広と交戦。現在のJR関ケ原駅から国道21号線を越えたところにある関ケ原中学校の敷地内に、藤堂高虎と京極高知は陣を構えたとされています。両隊は合戦時に福島正則隊に続いて東軍左翼縦隊の第2陣として進軍し、開戦後は不破関跡付近まで進撃して、大谷吉継の隊に属していた平塚為広と交戦し、午後には小早川隊と共に大谷隊を攻撃しました。平和を願う築城の名手藤堂高虎は、築城の名手として有名で、技術の価値・可能性を誰よりも理解しており、土木や建築の技術をもって、天下泰平な世を作ることができると考えていたそうです。そんな世の中を作るためにも、技術者を大切に扱ったといいます。徳川の時代になって、城の建設を始めます。以前は敵に威圧感を与えるため、黒塗りが当たり前だった城壁を、あえて白壁にすることで、明るさを表現した部分には、高虎の平和への願いが感じられます。 ...続きを見る
- アクセス
-
国道21号線松尾交差点を南下し、住宅街の一角にある中学校へ
中学校の敷地内にありますので、正門から入って右手側へ進んでください
-
3.31
- アクセス
- 2.00
- 人混みの少なさ
- 3.00
- バリアフリー
- 1.00
- 見ごたえ
- 4.00
「大谷吉継陣跡」は、山中(やまなか)の「大谷吉継の墓」から少し下った場所にあり、ひっそりと碑が建っています。大谷隊は、関ケ原の合戦が始まる十日程前に「若宮八幡宮」上の急斜面に陣を作り始めました。この陣は、空堀を左右に巡らせ、山中城と呼ばれるほどの要害の地でした。合戦後、徳川家康も大谷陣を一夜の宿として使用したという話もあります。戦術に長け、また官僚としても優秀であった吉継は、陣作りにも力を発揮しました。当初より小早川秀秋の裏切りを予想していたため、松尾山の真正面のこの地に陣を定めたというのも驚きです。小早川を見張るため!?天才軍師の陣跡 ...続きを見る
- アクセス
- JR関ヶ原駅から徒歩30分